ウワサ其の壱:信長様の父ちゃんって放任主義?

信長公記の方を読んでいただければわかるが、信長様の父ちゃんは自分がいた那古野(今の名古屋)の城を早々と吉法師(信長様)に譲っている。
今どきに言えば生まれたばかりの赤ん坊に庭付き一戸建ての都心に近いマイホームを与えたわけだ。
なんて財力!といってしまえばそれまでだし、ぽろぽろと城がたくさん作られた時代だからといってしまえば終わりだが。
また兵法やらありがた〜い教えとかまったく勉強もしなかったといわれている。
其のことを知っておきながら特に教育パパならぬ教育じい平手は大変気にかけたようだ。しかしパパ信秀にいたっては
無理強いした形跡がない。

自ら城を出て息子と生活を別にしたのは当時としても珍しい。いくら教育じい’s(林勝介や平手政秀)がいたからとはいえ
当時預けてはいても暮らす空間は同じである。
「偉大な父として自分を印象付けたかった」とか「人の上にたつにはこうあるべきだと学ばせたかった」など諸説ある。
確かに暮らす空間を別にしても当時の尾張を見ればしょっちゅう今川や齋藤と小競り合いがある中、
尾張の織田は弱小とも言える軍団だ。
ものごごろつけばどうみたって偉大には見えない、偉大に見せても粗が出てきてしまうであろう。

だが、信長様の父ちゃんはスゴかった。

信長様が生まれる少し前、今川氏豊の城であった那古野を奪って下剋上したのは信秀である。
また朝廷には莫大なお金を献じて壁や伊勢外宮の修理に当たっている。
尾張一国だけに限ればそれまでの父でも、日本を見ればすごいのだ。

またもう一つの人の上にたつには〜」の説においてはそうは思わない。
ただ信秀は試しただけのような気がする。
どうしようもないアホ殿(バカ殿というべきか?)ならばこの戦国の世、弑せられることは容易に想像つく。
いくら預ける相手が忠臣とはいえいつ牙をむくかわからない世の中だ。
ましてや大殿不在だ。家臣団が団結すれば怖くない。
「こんなところで家臣に殺されるようでは到底この先生きてはいけないぞ」というメッセージに見える。
まぁそこから発展すれば「だから人の上にたつには〜」といった事になるのだろうが。
信秀がそこまで考えていたかはわからない。
いろいろ調べていくとそういった試練みたいなモノが大好きそうな、そんな父ちゃん像が浮かんでくる。

退却