ウワサ其の弐:「信長公記」って「しんちょうこうき」?「のぶながこうき」?

 太田牛一著「信長公記」は織田信長の第一級資料。詳しくは「信長公記」のトップに書いたのでそちらを見てね。

 さて、そこにも書いたが「信長公記」をどう読むか、という問題がある。徳富蘇峰は「のぶながこうき」と読んでいる。
しかし広辞苑や受験用(とはいわず教育用)用語集には「しんちょうこうき」と読んでいる。
これと似た例で「信長記」を「のぶながき」「しんちょうき」、「将門記」を「まさかどき」「しょうもんき」と読むことがある。
特にこの二者は広辞苑でも両方書かれているのでじゃあ両方正しいのかな、と思いがちだ。
でもテストに書くと「まさかどき」「のぶながこうき」は×になる。
という事は、「しょうもんき」「しんちょうこうき」が正しいのか?

 では、徳富蘇峰は間違えたのだろうか。

 ちょっと話が飛ぶ。このことを論じる前に必ずこんな人がいるハズ。

 徳富蘇峰って誰??

 曲がりなりにも歴史を勉強している身としてはこれは知っておいて欲しい人。
高校教科書では太字ゴシックで書かれてる人だ。
でも戦国時代サイト(しかも極度な信長様サイト)でこんな人名を挙げられても困る人がいるのでは?

 徳富蘇峰。1863年〜1957年、まかり間違っても戦国の世じゃありません。明治〜昭和の人。
1863年といったら新撰組結成の年だ。この年はまだ江戸幕府がひいひい言いながら続いてる。
このおっちゃんは新撰組という団体と同年なのだ!!
そういう時代の評論家おっちゃん。もちろん活躍し始めたのは明治期から。
同志社で学んで民友社をたてます。民友社といえば「国民之友」「国民新聞」が有名。
平民主義を唱えていたが、日清戦争後に国権主義になったり戦後にまた主張を変えたりと、ころころ意見を変えたおっちゃん。
……というとかなり軽い人間のように思えますが、もんのすごい勉強家。
「近世日本国民史」を書くにあたって「特別な知識はない」といっているがどっこい、それは卑下だ。
そして学問という部分にかなり力を入れようとしたみたいだ。前述の著を書く理由として
「イギリスにはイギリスの、ドイツにはドイツの国民史があるのだから日本には日本の国民史を」と言っている。
そのためか、わざわざ文中の漢字全てにルビまでふってくれてる良いおっちゃんである。

 で、問題はそのルビ(笑
「信長公記」にはしっかりと「のぶながこうき」とふってあります。
弘法も筆の何とかでまちがえた、と考える(「しんちょうこうき」と読むのがもし正しいのであれば)としても
ルビのぶれは見られないし、本を刊行するにあたって推敲するときに間違いなら訂正されるだろう。
また、「のぶながこうき」と読んでいるのは蘇峰だけではなく、文献をあさればそう読んでいるものもある。
中にはルビをふらずに「信長公記」と書いてるだけのものもあるが。
特にルビがふられていないのは現代の著に多く、それはメディアやそれこそ学校教育など、または広辞苑などで
「しんちょうこうき」が定説とされている現代だから、あえてふらないのだろう。(とはいってもマイナーだけど

 ちょっと話がずれたが、「のぶながこうき」も「しんちょうこうき」もどちらも正しいと言う事だ。
どちらも間違いではない、と言って良いのではないだろうか。

 ちなみに古文書を読む際によく使われる古文書の名前が載っているいわゆる「古文書事典」には
「信長公記」は「しんちょうこうき」、「将門記」は「しょうもんき」、「信長記」は「しんちょうき」で載っています。

 じゃあわざわざ何でそんな読み方をするんだ!と思う方へ。
これは訓読みと音読みと言う事になるのではないか。

 「信長公記」は「信長公・記」なわけだ。
「公」とは貴人に対する言葉。つまり「信長公」と言えば敬っているワケだ。
信長って言っちゃうとものすごく簡単に言えばタメになる。
太田牛一は織田家の家臣である。呼び捨てはマズイ。
小瀬甫庵は江戸の人なのでワンクッションある。
私たちが「信長」と呼ぶように彼も「信長」と読んだのだ。
だから彼の著は「信長記」。
……本音としては紛らわしい名前つけるんじゃないよと言いたいところだ……

 話ずれちゃいました、もどします。(もどしてばっかりだなー(汗

 そもそも音読みは字の音(要するに「しんちょうこうき」)で、こちら本居宣長曰く「からことば」。
訓読みは日本語に当てて読む(つまり「のぶながこうき」)は「やまとことば」。
当時の古文書などを読んでいただくとわかるが漢文調で書かれていることがほとんどである。
つまりそこからけば文章は漢文調で読むほうがいいだろうから「しんちょうこうき」である。

本居宣長は江戸時代の国学者。日本古来のことばやものを重んじた人である。

ちなみに徳富蘇峰は先ほど述べたように平民主義者。
彼はいわゆる貴族たちによる当時の欧化政策に否を叫んでこの主義を唱えた。
つまり国学に通じるところがあるのだ。
後に平民主義が国権主義に変わっていくのもこういった根底を理解すればわかりやすい。
おそらく蘇峰は宣長の著を読んだだろう。
そして平民主義を唱える立場であった事も踏まえて、
「のぶながこうき」と読むことに意味を含ませていたのではないか。

 なので、『「信長公記」は「しんちょうこうき」であり、「のぶながこうき」であるが、
「しんちょうこうき」のほうがのぞましい。』と言う結論に私は至った。
ここまで読ませておいて恐縮だが、このことについて論じた文献を、私は目にすることがなかった。
なので、私がとにかく信長公記について記述のある文献をとにかくあさって
それでどう読んでいるか、を考えたものなので、本当は違う見解があるかもしれない。
その辺はご了承いただきたい。

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