ウワサ其の参:織田家の家紋「木瓜」

織田信長の家紋といって思い浮かぶのはこのページにもちりばめてある「織田木瓜」と呼ばれる家紋である。
さてここで問題。「木瓜」はなんと読むでしょうか?
←これね。
答えは「きゅうり」ではありません。「きうり」でもありません。
「もっこう」と読みます。
この家紋、どこから来たか、と疑問に思いませんか??

と軽く振ってみたりして。実は軽く触れるほど簡単な問いではない。

この「木瓜」紋、実はさまざまにバリエーションがある。
織田木瓜はそのうちの一つ。八つに分かれていたりするものもある。
ただし一番スタンダードなのは四つに分かれたもの。
とはいってもその四つに分かれたものですらいろいろとバリエーションがあり、もうわからなくなる。

元はこれは
という字を書いていた。
これで「か」という。つまり「か」もんというわけだ。
これは鳥の巣の様子を表したものといわれ、子孫繁栄などの象徴とされる。

この「か」もんの元をたどると古代中国にまでさかのぼるのですごい。
古代中国ではお役人が着る正装の模様にもちいられた、崇高な模様だったのだ。
ただ残念ながらその中国での「か」紋は現在わからずじまいである。


これが日本に伝わり、やはり崇高なものとして崇め奉られるようになり、
神社などの御簾の模様などに使われるようになる。
そこで起こったのは中身が花弁になった事。
それまでは鳥の巣というだけあり鳥の卵のようなものが描かれていた(らしい)が、
ここで花弁に取って代わった。
なぜ花弁になったかもまた定かではないが、一説には神の間接表現かとも言われている。
なるほど、神様を直接表現するのはあまり好まれていないため、その説も無きにしも非ずだ。

としてここから。
何故織田家が木瓜紋かと言う問いが生まれる。
一説には越前織田荘から来る説。
そこの荘園の主である神社にいろいろと協力した事により、
木瓜紋を授かり、そして後は斯波さんについていって尾張に……という説。
もう一説は朝倉氏が絡む話。
朝倉家は三ッ木瓜紋を使用している。
織田家も朝倉家と姻戚関係にあった時に「木瓜紋」の朝倉家より使用を許されたという話。
織田信長はその六代後にあたるそうだ。

家紋というのは結構奥が深い。
実は徳川葵も寺社から貰った例。その寺社が何故葵かというのは巫女さんが踊ったりするときに頭につける
草花が葵だったから、という事らしい。
ただ、徳川の家門を見て気をつけることは、幕府の縁があって立てられたから徳川葵、という経歴も寺社もあることだ。
全てが全て寺社から武家へ、という道をたどったのではない。

そして、織田信長の使用した家紋はこれだけではない。
揚羽蝶紋も使っている。
何故か。それは揚羽蝶紋は平氏の流れであることを示すからだ。
こんなところにも源平交代説がはいってくる。
また永楽銭紋。これは自分の力が永楽銭のように流通する事を願って、といわれている。
また二引両紋、五三桐は足利将軍から賜ったもの。

このように家紋は一つに限られない。
家紋を知らないと戦場では敵味方の区別が付かず大変な事になる。
だからこそ、家紋の事典を作らないとならなくなったのかもしれない。



追加。
平安時代に使われた木瓜紋が判明しました。
徳川葵くらいがんばりました。しばらく家紋描きたくない(爆
←これ
と、雑談はさておき、
上には「後に花弁に取って代わった」とかいたが、実は
自体に花のすい(心を三つ書く。木を三つ書いて「森」のように
を表すらしい。という事は元から花弁だったのか??
確かにこの「か」紋、すでに花弁だ。
また蜂の巣だとする説もあるらしい。
平安時代には蝶紋とともに吉祥紋として使われたらしい。
「か」紋も蝶紋も子孫繁栄を願ったもの。そんなありがたい紋がこの木瓜紋だったのだ。

平安時代、陰陽道、仏教、神教、さまざまな宗教が影響した生活が営まれていたため、
この「か」紋が中国からわたってきて神前に使われ始めたのとはほぼ同時に生活にも入れられたのではないか。

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