ウワサ其の肆:平手政秀は本当に忠臣??

平手政秀と言えば織田信長の教育係で有名な武将である。
責任感強く、まじめであったところから織田信秀(信長のダディ)に信長の教育を任されたという。
しかしいくら平手が怒っても信長のうつけは治らず、父の葬儀にいたっては目も当てられぬ始末。
教育係としての責任を感じ、自ら死をもって信長を諫めた。
信長は彼の死を痛み政秀寺(せいしゅうじ)を建て、その菩提を弔った……―――

というのが政秀というと思い浮かばれる忠臣の美談である。
主従の関係ってウツクシイネ!という話。

しかしこの話、妙に胡散臭い事にお気づきだろうか。
後に比叡山を焼き討ちにしたり、自らを神だといったりする信長が、
つまり信仰心の薄い信長が寺を立てて菩提を弔う、といった点である。
現実に政秀寺は存在するお寺なので建てた事に変わりはないが……
動機として彼の死がかかわっている事もまた事実である。
しかし本当に信長が建てさせたのだろうか。

もう一つ、それは信長のその後のうつけが治っていない事である。
寺まで建てて弔うくらいなら行いを改める方が経済的……というのは私の勝手な思い込みではあるが、
事実平手の死後も信長は相変わらずのうつけっぷりである。
中には治ったと記す書物もあるが、それでは根っからのうつけである。
大事な家臣を亡くしてからやっとわかるほどのうつけということになる。
信長の野遊びは後の桶狭間での勝利につながったりしているのでただただうつけと決めるのは抵抗がある。
当時からみれば確かに(今からみても?)普通じゃないが。

そしてさらに。政秀には子供たちがいたのだが、それが全く織田家の中で優遇されていない事である。
主人のために腹まで切った家臣の子供たちは普通に考えれば優遇される。
江戸前期までにおいては殉死はざらにある話で、
主人のために腹を切る(主人がなくなったので腹を切って死後までお供する)というのは誉れであった。
さらに驚くべき事に腹を切ればお金がもらえたのだ。
中には借金苦でたいした忠誠心もないが仕方なく主君に殉じた者もいたそうだ。
かの伊達政宗が亡くなった時、15名が殉死、その後も大名が死ぬと殉死が後を絶たなかったため
1661年、幕府は殉死を禁じている。
平手の場合、信長が死んだわけではないが殉死ととらえても問題ないと思うが、
彼の子孫は優遇された形跡すらない。

では、本当に平手は忠臣で、諫死したのだろうか?

平手政秀は織田氏に仕えていた。
尾張を訪れた公家の山科言継は、政秀邸の造作のすばらしさに驚いている。
また、政秀は文芸にも造詣が深かったとも言われている。
信長誕生とともに宿老となり、主に財政を担当した。
これは信長公記のほうに書いたのでよろしく。
信秀の名代として上洛し、朝廷に御所の築地修理料千貫文を献上した。
そのころ、信秀は美濃攻略で斎藤道三から撃退され続け、負け戦を重ねていた。さらに清洲との内輪もめ(内輪もめも信長公記にて
八方塞だった信秀を救ったのが平手であった。
織田・斎藤同盟を成立させ、道三の娘帰蝶(胡蝶とも。お濃の方、濃姫)を娶らせる。

彼はこういった経歴の持ち主で、まじめ、責任感が強いという面のほかに
派手好きであった面もある。それは文芸に深く傾倒したところからも明らかである。
派手好きであるということはお金もあったということであり、お金があれば人は自然とよってくる。
そして長年使えてきた勇将織田信秀はすでに土に帰り、残ったのはいつ廃嫡するかわからない大うつけ・信長。
信長の家臣への影響力はほとんどない。むしろ弟信行にという声も上がっている状況。
家臣たちの不満、そして自らへの人望の厚さ。

考える事は一つではなかろうか?
そしてそれを嗅ぎ取った信長に見せしめのため切腹をいわれ……

「信長公記」にはある時信長が、政秀の長男の馬を欲しがったが、その命を息子に拒否され、それが因となり、主従間が不和になったという。
さらに、政秀は信長の前途を悲観して切腹したとある。
つまり板ばさみである。
悩んだ末しょうがなく、というところだろうか。

彼の死を諫死とするのはあまりにも謎が多い。

退却