ウワサ其の伍:信長の着物に男の人の「イチモツ」が染められてたって……??


老人雑話曰く、斎藤道三との会見のときに、信長の着物に男の人のナニが染め抜かれていたらしい……。
もし本当なら信長はとんでもない人間だ。
仮にも一国の主と面会、しかも相手は義理の父、自分よりも大きな国の主である。

老人雑話ではこう述べられている。

信長、美濃斎藤か所へ婿入の時、廣袖の湯帷子に、陰形を大に染付て着し、茶筅髷にて往く、
山城守か家老等國境まで迎に出て、其樣を見て膽をつぶし、密に云ふい、此樣の人に七五三
の式法なとは不都合ならんとて、早使を返し田舎家具の大なるなとを用意せよと云、信長宿
に着て、束帯正しく調て、山城守に對面す、父驚き騒ぎ、もとの七五三の式法を用ゆ、此時山
城嘆して云、我が國は婿引出物に仕たりと、其心は我子共なと國を保つゝとあたはし、信長に取
れんと思ふ也。

現代語訳すると

信長が美濃国斎藤道三のところに婿入りするとき、袖が広い湯帷子に男性性器を大きく染め抜いた物を着て、
茶筅髷でやってきた。道三の家老たちは国境まで迎えに来て、其の様を見て肝をつぶし、
ひそかに「こんな人に七五三の式法なんて不都合だ」と言いあい、早使を返して田舎風の家具の大きい物などを用意せよ
といった。
信長は宿について束帯正しく着込み、道三に対面した。道三は驚いてあわてて、もとの七五三の式法を用いた。
この時道三がこういった。
「わしの国は婿引出物としよう。わしの子供に国を保ってはいけぬ、信長に与えようと思うからだ。」

というのが此の噂の出所の実のところである。
七五三の式法というのは杯をやり取りする、献酬という作法の一種である。

ここで一つ気になるのは「信長、美濃斎藤か所へ婿入の時」である。
確かに信長は婿入りという形を取っているが、この時はそんなに盛大に執り行われていない。

ご存知の通り、これは美濃尾張の同盟の証となる出来事というわけだが、
当時もう一つの清洲を拠点とする織田家(当時尾張国は分裂中)との内紛や、
美濃侵攻の失敗など、織田信秀には気がかりな事が山とあった。
このままでは家臣も兵も疲れてしまうので、美濃斎藤道三と和睦する事になった。
その証拠に信長と斉藤道三の娘、帰蝶(以下濃姫)との縁組が執り行われた。
そのとき、清洲とも和平交渉が行われていたが、こちらはなかなか進まなかったという。
しかし信長の婿入りが決まるとすんなりと和睦成立。何故であろう。

これは清洲側が「婿入り」という点に着目したからであろう。
つまり、「信長を他国の婿として追い出してしまえる」という考えが働いたのだ。
しかし実際はかの平手の腕がものを言った。
「弘治2年に婿入りするよー」という平手の言葉を信じ、清洲は和睦。
そしてうまい事濃姫を尾張国へ連れてくる事に成功したのだ。
美濃国としては盛大に行うはずだった(なんていったって美濃国は大国である)国主の娘の輿入れだが
ここも平手に「天文十八年に行うから姫さまちょーだいv」という言葉にのせられたのだ。
実際六年後の弘治元年、世間的に濃姫のお輿入れをしているところから、
清洲から見れば、「婿取りの前に濃姫を連れてきただけだろう」というように見られていたのかもしれない。

つまりこの時は大きな行事は執り行える状況ではない。
なのでここは「婿入の時」ではなく、「正徳寺での会見」のときだったとすれば、合点がいくのではないか。
実際この老人雑話のストーリーは正徳寺のエピソードとよく似ている。
二度もだまされたのなら、そうとう道三はバカだ(と言い切っていいのかは問題だが……

そして問題の「イチモツ」の話だが、これは嘘か真か、というところはわからない。
湯帷子というのは浴衣の事であり、湯上りに着るものである。
浴衣を着ている=アットホームな雰囲気という事で、
浴衣を着て外に出る事はまれである。
当時の一単衣のものは小袖と呼ばれる物で、湯帷子とは別である。
つまり湯帷子の時点で「なんてこった!」という服装だ。
ちなみに明衣は貴族・天皇の浴衣である。こちらは染めたりはしないが(白が基本)
後に明衣と書いて「ゆかたびら」とも読ませることもあったようだ。

太田牛一はこの事について(イチモツの話について)何も語っていない。
此の老人雑話の語った本人、自称老人の江村専斎とは一体どういう人物だろう。

1560年〜1659年という、すごい長寿の老人。
もう自称でなく、世間から見ても老人(笑
老人の域を超えている。超老人というところか。
室町時代の儒医。
彼のひいおじいちゃんは織田信長に圧迫され出弄し、京都に隠れ住んだ。
……そう、彼にとって織田信長は敵役でもある。
だからこんな事を書いた!と断定するのはあまりにも単純すぎるが、
専斎に信長へのよからぬ気持ちがあったことは避けられないのではないだろうか。
無論、ひいじいちゃんと仲が悪ければそんな事もないだろうが。
彼については長生き超老人という事以外、ほとんど資料が残っていない。
そのため私が調べられたのはここまでである。

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