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第一回中間報告
1. 今までの織田権力と天皇・朝廷

・ 戦前の皇国史観――「勤皇の士」説  織田信長は「勤皇」
  幕府を開かず、室町幕府(武士政権)を倒したことに着目。
   証拠の事例としてあげられたもの
      ・禁裏御料所の回復
      ・御所の修理
      ・禁裏貸米制度「公家徳政」

   →戦時中は学問の自由が保障されていなかったこともあり、これを鵜呑みにするのは危険。
     今は過去の説としてみられている。




・ 1970年代の幕藩制国家論――「天皇・朝廷と対立」説
  織田権力が幕藩国家の起点――現在も通説として評価されている
   一向一揆の蜂起と闘争・弾圧と、一揆農民に見られる「百姓王孫」思想の克服
    【百姓(庶民)は王孫(天皇の子孫)であるので、武家の主従制的な支配には服さなくてもよいという考え】
       ↓
    一向一揆との対決=天皇・朝廷権威との対決
    織田権力期に天皇存続の最大の危機
    天皇を戴かない国家支配の可能性

   →一向一揆との対決は、百姓王孫という考えに反する(武家の支配を受けさせようとしていた)と考え、
     これにより織田権力は天皇・朝廷とは対立していたと考える論。
     そもそもこの時期は朝廷は儀礼を自らの力で行えないほどにまで財力など落ちていた。
     そのためこのように天皇・朝廷を否定し、新しい国家支配体制を作ろうとしていたのではないか、と言われている。




・ 今谷明氏の研究――「対立はしたものの敗者」説
  戦国期は天皇権威浮上の時期 実態もある
  織田信長は正親町天皇との権力闘争に敗れた敗者

   →前項での考えのように、この室町後期を朝廷・天皇の衰退期ではなく、むしろ権力が強まった時期と見ているところが中心。
     天皇と信長は対立をしていたが、信長はついに朝廷・天皇の影を払う事ができず、結局は越える事ができなかったという論。




織田信長と天皇・朝廷についての問題点
  1、 基礎的は事実関係が十分解明されていない [正親町天皇の譲位問題、信長の官位問題(将軍任官問題)]
  2、 織田権力と天皇・朝廷の対立を所与の前提 [公武関係は対立か、協調・統一か]
     対立の立場は戦前より研究されていたが、近年は逆の方向性
     中世史の河内祥輔氏、富田正弘氏、近世史の深谷克己氏らの研究
  3、 織田権力期が天皇存亡の最大の危機という認識
     現代の「天皇制打破」という課題が織田権力の分析に入り込んでいる

   →天皇制打破という課題が入り込んでいるかどうかは別問題だが、この認識が揺らいでいる事は今谷氏の研究からも明らか。



2. 堀新氏の研究 京都馬揃をめぐって(堀新「織田信長と武家官位」「織田権力の再検討―京都馬揃・三職推任を中心に―」の要点)
① 天正九年(1581年)2月28日の京都馬揃を望んだのは天皇側
   史料[禁裏上御倉職・立入宗継「立入左京亮入道隆佐記」、大田牛一「信長公記」]
   朝廷への軍事的威圧ではなかった
   ・二度行われていて、二度目のほうが小規模であった [吉田兼見「兼見卿日記」、「立入左京亮入道隆佐記」、「信長公記」]
   ・安土でも馬揃はわれている
   ・秀吉の北野大茶会が信長の馬揃と比較されている[「多聞院日記」]
   ・翌年は計画すらない

   なぜ朝廷が望んだか
   →誠仁親王の生母新大典侍(万里小路秀房女)の急死による新年の沈黙を一掃するため[「御湯殿上日記」、「兼見卿日記」]

   →これは堀氏による想定。引用部のみしか確認していない為、この前後を見る必要あり。

   →信長と誠仁親王の関係



② 左大臣推任勅使は二度派遣、織田権力側が推任を強要した事実は見出せない
   信長の官位 正二位なのに無官(異例の事)→確かに異例。
    天正三年(1575年)十一月 従三位・権大納言兼右大将
                     正二位・右大臣兼右大将
    天正六年(1578年) 四月 両職を辞官   理由は嫡男信忠への家督継承と織田家による天下支配の永続性を明確にするため
                               自らは名目上隠居、信忠への官位委譲を図る[「兼見卿日記」]
   官位は天下統一の障害になるのではなく、統一後の障害になる

   天皇側が信長の官位を望んだ理由は最大の実力者である信長の庇護、その裏づけになる信長の復官が目的
   勅使は二回派遣されている[「立入左京亮入道隆佐記」、「御湯殿上日記」]



③ 正親町天皇の譲位を望んだのは朝廷側
   上皇が治天の君として君臨するのが中世朝廷の状態
   天皇が長期にわたって在位する戦国期のほうが異常→財政難 織田権力の保護によって即位儀礼が可能
   天皇・朝廷側は待ち望んでいた[「正親町天皇宸筆後消息案」、「孝親公記」]
   よって、織田権力と天皇・朝廷間に対立を認めることはできない
   「公武統一政権」と捉えることができる(摩擦がなかったわけではない)



信長の三職推任 [勧修寺晴豊「晴豊記」、「日々記」]
   将軍説、太政大臣説、関白説、神格化説(官位は眼中になし)の四つ
   三職推任は天皇・朝廷側からの武田氏滅亡に対するお祝い
   主体はわからないが信長の意向を受けたものではなかったため、三つの官職が上げられた



織田権力と室町幕府
   幕府職への就任を一貫して拒否
    →義昭との主従関係を明白にすることを避け、相対的に自立した権力であろうとしたため
   家紋など、栄典は受諾。
   諸政策を発令する場合、幕府職には依存しなかった
    →大名、諸侍、寺社、公家いずれも幕府最大の実職者は義昭より信長であると認識→私の中では疑問視
   織田権力と武家官位
    天下統一や大名編成に官位序列を利用した形跡はなし
    嫡男信忠への家督譲与を官位譲与の形でも表そうとしている
     →官位に実質的な効果を期待してはいない
      名誉栄典としての機能のみを認め、決して高くは評価していなかった



3. 課題
① 信長の任官について「公卿補任」
   天正二年の信長の任官は裏工作[橋本政宣氏「織田信長と朝廷」]
    これは事実か。事実としたらなぜ裏工作を行わなければならなかったのか。
② 信長の辞官について
   嫡男信忠に譲るためとはいえ、なぜこの時期だったのか。
③ 信長と天皇・朝廷そのものについて
   権力的なものだけではなく、人としてのつながりはどういったものだったのか
④ 堀氏の研究での「幕府最大の実職者は義昭より信長であると認識」
   堀氏の論では、幕府に何か事を通すとき、先ず信長に通している事を論拠としているが、本当にそれがいえるか。



4. 参考文献
今谷明「信長と天皇」
堀新「織田信長と武家官位」「織田権力の再検討―京都馬揃・三職推任を中心に―」
「公卿補任」