阿弥陀寺

アクセス
市バス「葵橋西詰」など。
下賀茂神社を目指すといい。

概要
天文年間に清玉上人の開創によってできたお寺。浄土宗。京都四十八願寺巡拝の十六番札所。蓮台山と号。
本尊は阿弥陀如来。織田信長、信忠の木像もある。
最初は近江坂本(滋賀県大津市)に作ったが、清玉が信長からの帰依をうけ、
西ノ京蓮台野芝薬師西町(現大宮今出川東)にうつった。
八町四方(一町=約109.09mなので、大体873m。ただし単位はころころ変わるので注意)の境内と
塔頭十一ヶ寺を構えていた。清玉上人は織田家と深い親交があり天正十年(1582)六月二日の本能寺の変のとき、
本能寺にかけつけ織田信長、信忠、父子の遺骨を当寺に埋葬したといわれている。
境内には織田信長、信忠、森蘭丸、力丸、坊丸をはじめ、120ほどの家臣の墓がある。
明智光秀を討ったあとの豊臣秀吉による信長の法要についてで秀吉と不仲になり、天正十八年(1590)の豊臣秀吉によって阿弥陀寺は現代の場所へ移った。
清玉上人は桶狭間合戦のとき信長が助けた女の子供らしい。
時に天正十年六月二日、明智光秀謀反の時、清玉上人は信長公の旅館本能寺に押寄せるをきき、
塔頭の僧徒廿人余りを召し連れ本能寺に駆けつけられ、表門は厳重に軍兵四方を囲み寺内に入る事出来ず、
裏道より辛うじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公が割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり、
上人がこれをみるに信長の家臣なり、之に顛末を聞くに信長公割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり、
しかし四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし、やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと一同答えたり、
上人信長公とは格別の由縁あるを以て火葬は勿論将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、
各々自殺するよりむしろ信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、
武士ら大いに喜び門前の敵を向うすきに上人火葬し白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺し
白骨を深く土中に隠しおきたる。                        「信長公阿弥陀寺由緒之記録」

果たして、この記述を真実と見るかまがい物とみるか。
信長の墓所については諸説あり、どれとは言い切れないのが現状である。

以下、狼木のアホレポート

なんか、似た感じのお寺がかなりいっぱいあるんですけど……
実はこのあたり、歩けど歩けどお寺ばかりです。
しかも途中はいたってふつーの住宅街。
駅方面から来て大体四つ目のお寺です。
門の前にはこういった石碑と板(写真では隠れてしまってます
があるので、わかりやすいといえばわかりやすい。

境内はとてもきれい。ちゃんと整っていて……というか、
ほんのちょっぴり狼木が通った幼稚園に似た雰囲気(おい
まぁ細かい事は気にしない。
本道の左手奥にお墓はあります。

第一印象。


小さっっ!!


上げ底のうな重のようだ(食い意地張るのはよしなさい
ちょうど人の身長程度の大きさ。
そしてその左手には、小さな蘭丸、力丸、坊丸のお墓が。


後ろはトタンかっっ!!


ムードないって言うか、歴史の表舞台に立った人物、
またはそれをささえた人物のお墓らしくない。

でも私にはかえってそれがよかった。
仰々しいものではないからかえって、なぜか人間として「信長」を見れた気がします。
無念、というより「仕方ない事」という感じがしました。
なぜでしょうね、禁止もされてなかったのに写真も取れなかった。
いつもはこういうところ来ると煩悩だらけになるのですけどね。
とってもおとなしくなってました。

来るころに降ってた雨が、やみました。
お線香もってくればよかったと少し後悔。

さて、帰ろうかと門をくぐったところ、また小雨が降り始めました。
お、御屋形様??!(逝ってよし