首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
小豆坂合戦の事

八月上旬、駿河の今川義元の軍勢が、三河国正田原に出てきて、七段備えに陣を敷いた。その当時三河国の安祥という城は、備後殿がお抱えになっていた。今川の軍勢のの由原が先立ち小豆坂へ兵を出した。すぐに備後殿は安祥から矢を番えて出発なされ、小豆坂にて備後殿の弟である与二郎殿、孫三郎殿、四郎次郎殿をはじめとして、ことごとく一戦交えた。
その時に戦った者たちで備後殿、与二郎殿孫三郎殿、四郎次郎殿、織田造酒丞といった方たちは槍傷を被られた。
また内藤勝介は強い武者で名を上げた。
そして那古野弥五郎という清洲の者が討死なさった。
下方左近、佐々隼人正、佐々孫介、中野又兵衛、赤川彦右衛門、神戸市左衛門、永田次郎右衛門、山口左馬助といったかたがたは再三四度交戦なさり、何度もいらっしゃり、それぞれ手柄をたくさん上げなさった。
しかし戦の様子は厳しいものだった。
那古野弥五郎の首が由原によって討ち取られた事により、今川の軍勢は討ち入ってきた。
七段備え=陣立のうちの一つ。先頭・先備(先備え)・脇備(わきぞなえ)・旗本・後備・小荷駄奉行・遊軍の七段。

この小豆坂合戦は戦国マニアな方ならまだしも、駆け出し戦国ファンは知らないかもしれない。
ちなみに当時三河国は松平広忠(徳川家康のパパ)の治める国だったが、清康(家康のじっちゃん)が闇討ちにあい、広忠があとを継いでからというものの
松平家はまったく振るわなくなっていた。がんばって取った領地も織田&今川に掠め取られる始末。
話はずれるが家康が天下を取るなんて、当時はまったく思いもよらない事だったのだ。

この文献にあるようにまずは今川義元がやってきたことで小豆坂合戦は始まる。

この今川義元、実は当時一般だった長男が家を継ぐといった形では到底出てくるはずのない人物だった。
今川家長男・次男は同日急死。今もってその死は謎のままである。
そこで花蔵の乱と呼ばれる内紛が起こるが、それを制して義元は家督を継いだ。

その今川義元は功労者であり、家康の師にもなる雪斎という禅宗の僧の協力も得、「東海一の弓取り」といわれるまでになる。
そして勢いにあまり上洛しようとしたのだ。
しかしその道のりには尾張の織田、三河の松平がいる。
強大な軍を持つ今川義元にしてみれば内部分裂状態の織田や力なき松平などは弱小国だ。
が、三河の土地は欲しかった。
織田からしてみれば今川に対抗すべく三河の土地が欲しかった。

松平家ピンチである。もちろん自国を守るほど力はない。

そうして起こったのが小豆坂合戦だ。
一時期は小豆坂七本槍といわれるほどの勇猛さを謳い、第一回目には勝つのだが、結局は負けてしまう。
安祥という城もとられてしまう。
松平氏はこうして今川に隷属する事になった。

ちなみにこの信長公記いかにもというか、笑ってしまうのが旗色が悪くなった以降が書かれていない。
私からすれば、「今川の軍勢が討ち入ってきてそれからどうした!」といいたいところだが、
つまりの結論は負けたのだ。

しかし織田信秀は他のところで述べた通りに御所の再建費用を出したり何かと幕府に働きかけていたので義元からしたら気に食わないやつだったのだろう。
しかも弱小国の癖に主従関係が硬い。だからなかなか切り崩せなかった。
そのためにも松平から人質を要請し主従関係を硬くしようとしたのだが、それも失敗、人質の竹千代(家康)は織田に奪われてしまう。
この時代に信長こと吉法師と家康こと竹千代はであったのだろう。
ちなみに後に竹千代は人質交換として駿河に送られる。

退却