首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
吉法師殿御元服の事

吉法師殿が13歳の時、林佐渡守通勝と平手中務政秀、青山与三右衛門、内藤勝介がお供申し上げ、古渡のお城にて元服なされ、織田三郎信長とお名乗りになられた。その御酒宴や御祝儀は盛大ですばらしい物であった。
翌年、織田三郎信長は初陣なさった。平手中務が後見を務めた。その時の仕立は紅筋の頭巾、陣羽織、馬鎧といったいでたちであった。駿河の今川から軍隊が入り込んでいた三河国の属城吉良の大浜へ軍をお進めになり、所々火をつけたりなさった。その日は外に陣を張り次の日那古野に御帰陣なさった。

今回は特に揉め事(笑)のなさそうな文章である。
なのでここは一つ信長という人物から離れてこの時代の通過儀礼「元服」についてということにした。
(単にネタに詰まっただけ

元服はさまざまな様式がある。だからひとえに元服は、といえないのである。
さかのぼろうと思えばどんどんさかのぼれる。それほど歴史ある日本の通過儀礼だ。
周代中国にもこの儀礼は見られるため元服の一番の出所は紀元前までいたってしまう。
日本でも最初はやはり高級身分の者の儀礼だったが平安期ごろから一般の人々も行うようになる。
最もその様式もさまざまで、当然天皇がやる元服と農民の元服は違う。

元は衣服の歴史でもいえるように公家が最初だった。
それが武家もやるようになり、という事だ。
ここで武家風と公家風にはまた違いが出てくる。
しかしこれをいちいち説明しているときりがないので割愛。
やはりこのサイト、範疇が戦国時代なのでそこに限らせてもらう。

戦国時代(安土桃山時代)になると公家は古来の公家式で行われたが、
武家と民間だけに変化が訪れる。つまり古来とは違う、数えて三番目の様式がでてくるのだ。
一体何が変化をもたらしたのだろう。

それは戦国時代といって思い浮かぶ代表的なものだ。
それこそ信長の頭を想像してもらいたい。

そう。ちょんまげ頭だ。

このちょんまげ頭、正式には月代(さかやき)という。
平安時代後期から見られる髪型だ。
この月代、本来は今時で言うと有事の時に限って兵士たちが頭を剃ったのが始まりだ。
何故頭の上をまるで河童のように丸く剃ったかというと
戦で重い兜をかぶる事を想像しよう。
特に夏場がわかりやすいのではないだろうか。
炎天下、熱を集めるような兜。しかも重い。
誰だっていらいらしてくるだろう。
そんな事で気が逆上するのを防ぐために髪を剃って少しでも熱がこもらないように、としたのだ。
このいらいらを押さえるというところから「逆気(さかいき)」となり、それがなまって「さかやき」となった。
「月代」の文字はあのちょんまげ頭が月のようだからだ(私は太陽のように見える
ついでに戦が終わると月代の部分もまた伸ばしてもとの通りにしてしまっていた。

暢気な(というとかなり語弊があるが)時代はよかったが時は戦国。
ほぼ毎日が戦争。エブリデイ国盗りロマン(バス○マンじゃあるまいし
いちいち剃っては伸ばし、剃っては伸ばしするわけにはいかなくなり、とうとういつも剃るようになる。
この殺伐とした時代、けつしきという木の鋏で抜いていた。
ぶちぶちっと。すごく痛い。想像しただけで痛い。
まさに血塗れになる事もあり、まさにしたくない髪型であった。
しかししないと蒸れる。いらいらする。
そんな惨劇に終止符をうとうとした男がいる。
伊勢貞親という男だ。
「もう痛いし血が出ることもあるからけつしきで抜くのは禁止!!これからは剃刀でやりなさい」
それが広まり剃刀が使われ始める。
一説にこのサイトの主人公、織田信長が剃刀で剃った最初とするものがあるが、これは誤りである。

そんなこんなで、元服は従来のものよりも複雑になってしまう。
戦国時代の武家の子供は前髪を残してこれを左右に分けてたらしていた。
寛永のころにはその髪型が変わり前髪を上に立てるようになる。これが吹前髪といわれるものだ。
だから一概には言えないがとりあえず前髪を剃って次に大人の髷にするのだ。

ちなみに信長の元服は13歳。しかし13歳が成人というわけではない。
天皇は11歳から15歳を限度としている。
父になぞって行われることもある。
藤原公賢の家では5歳で行ったそうだ。
かと思えば足利義教は35歳。35歳の成人式……人生50年の時代に……

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