首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
美濃国へ乱入し五千討死の事

さて、織田信秀殿は国中で徴兵なさり、一ヶ月ほど美濃国の齋藤道三へ攻め入り、またその翌月は三河の今川方についた松平氏をお攻めになった。
またあるとき、九月三日の事であったが、尾張国中の兵を徴兵なさり、美濃国へお攻めになった。所々に放火なさり、九月二十二日には齋藤山城道三の居城である稲葉山上の山のふもとの村々にまで兵を推し進め、焼き払い、町の出入り口まで兵でお囲みなった。すでに午後四時ごろになっていたので、兵隊を退かせ、もろもろの部隊が半分ほどになったところに道三がどっと南へ向かってきりかかってきた。何とか支えようとしたが、多くの兵が崩れ、再び持ち直すまでの間、守備したがかなわず、信秀殿の弟である織田与次郎、織田因幡守、織田水戸正、青山与三右衛門、千秋紀伊守毛利十郎、家老の寺沢又八の弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎をはじめとして、次々と五千ばかり討死なさった。

尾張国が「上下わかち」の状態であることにくわえ、信秀(信長のダディ)を悩ませていたのは
東の三河国を一とする当時戦国一の勢力を誇った今川義元と
美濃国一国を治めている美濃のマムシこと、齋藤道三である。
彼らは何かとちょっかいを出してくるのだ。
主たる所以は尾張国がちょうど京の都への通り道であることもいえるが、
何よりも織田信秀という人物によるところも多い。
信秀は下剋上でのし上がってきた人物であり、また平手などを使って朝廷に資金を献上するなど
経済力も、武勇も兼ね備えた人物だった。
軍隊の力的には弱小といわざるをえない尾張国だが
「尾張の虎」とあだ名される様な信秀がいたからこそもったのかもしれない。

そんな彼を悩ませた、織田家の最大のライバルが美濃国の齋藤道三。
彼もまたこんな乱世に生を受け、そして下剋上してきたうちの一人だったのだ。

幼少の頃、妙覚寺に入り、法蓮房と名乗っていた。
還俗したあとは庄五郎と名乗り、油問屋・奈良屋又兵衛の娘と結婚。
油商人の行商をしていた。
妙覚寺での弟・弟子だった日運上人の推薦で
美濃の土岐氏の家臣、長井長弘に仕えた。
美濃の守護の弟である土岐頼芸に取り入り、兄の政頼を追放して頼芸を守護につけた。
そして長井家を乗っ取る。
稲葉山城を居城とするようになったのはその頃だ。
その後守護代の斎藤家の家督を相続。
そして土岐頼芸を追放し、美濃一国の主となった。

また邪魔者を消すにはたとえ親族であっても切り殺すという恐ろしさを持っていた。
まさにマムシである。

剃髪したのち道三と号し、家督を嫡男・斉藤義龍に譲る。
しかしこの義龍,実は土岐氏の流れを組む人間であった。
道三にはいつも「器量なし」といわれあまりよくない感情を持っていたらしい。
結果義龍に反旗を翻され、道三に不満を持っていた美濃兵士にも離れられ、討死する。
信長に美濃を譲り渡すという譲り状を決戦前夜に書いていたのは有名な話である。
信長の生涯を決めた男といっても過言ではない。

今回の場面はその道三に信秀が噛み付いたという話だ。
ちょうど2004年9月8日にNHKで放送していた内容のところだ。

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