首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
上総介殿形儀の事

さて、平手中務の才覚で、織田三郎信長を斎藤山城道三が娘婿に取り、道三の娘が尾張へやってきた。その間、さまざまの揉め事も、全く静謐だった。
信長が16,17,18歳くらいまでは特別に遊んでいるわけではなかった。馬にまたがって朝から晩まで駆け巡り、また、三月から九月の間には川に入って水練を行っていて、得意であった。また竹やり合戦で叩き合っている時、何はともあれ、槍は短くては具合が悪いとおっしゃって、
三間の長さの柄や、三間半の長さの柄の槍にさせた。その頃のお姿は湯帷の袖をはずし半袴を履いていて、火打ち袋など、いろいろたくさん多く腰につけて、髪は茶筅髷にして、紅の糸や、萌黄色の糸で巻きたてて結われていた。大刀は真っ赤な鞘で、ことごとく赤で同一していた。市川大介に弓を、橋本一巴に鉄砲を、平田三位をいつも兵法をお習いになっていた。鷹狩りもなさった。
ここに良くない事がある。町をお通りになるとき、人目もはばからずに栗や柿はいうに及ばず、瓜をかぶり食いして、街中では立ちながら餅をほおばり、人に寄りかかり、人の方に寄りかかって歩いていた。その上町は世間公の場であるために、大うつけと呼ばれていた。
道三の娘=濃姫。帰蝶、胡蝶とも
三間=昔の長さの単位。一間約1.818メートル

最初は平田三位・橋本一巴・市川大介をWANTEDしていたのだが資料がなさ過ぎなので、方向転換。

鷹狩りは武士の遊戯であろうはずなのだが
「特別遊んでいたわけではない」といったあとで「鷹狩りもやっていた」とは如何なる事だろうか。

鷹狩りは実は日本発祥の文化ではなく外来文化で、日本書紀によると仁徳天皇43年に百済王族の酒君(さけのきみ)が
献上した鷹を天皇が百舌野で使って雉を捕ったのが日本で最初の例といわれている。
本当に天皇がやったのか、というところが疑問だが鷹を拳に据えた人物埴輪も出土しているため
時代的に間違いはないだろう。また鷹甘部(たかかいべ)を設置したのも仁徳天皇代といわれている。

古代は王侯や貴族の遊戯であったが、そのための鷹を捕まえる者もいる為に、庶民にも浸透していったと思われる。
12〜13世紀には食料調達の為の庶民の鷹狩りが日本各地にあった。
勿論中世社会にも鷹狩りが盛行している。鎌倉幕府は禁止したが全く成果は上がらず。
神仏の化身として、特に信州諏訪社においては毘沙門天と不動明王の化身としてあつかい、信仰していた。
室町時代になると足利将軍や守護大名も鷹狩りをたしなむようになり、諸国守護が鷹を献上するようになる。
将軍家は鷹狩りの獲物の鷹の鳥を朝廷に献上する。つまり鷹狩りに関したものを献上することは臣従を示していた。
しかし信長が生きた世は戦国の世。惨めな事に足利義昭は「鷹をちょうだい!」とねだりに鷹匠を上杉・大友・島津・吉川などに派遣している。

つまり、ただの「お遊び」ではなくなってきていたのだ。

特に信長は鷹狩りを身体練磨、領内地理の検分、陣立ての模擬訓練に用いていた。
進軍の途中にも、さらに敵と退陣しているときにも実施している。そんな暇あるのか??
たとえば柴田勝家に当てた掟書きには

一、鷹をつかふべからず。但、足場とも可
見ためには可然候。さも候はずは、無用に候。子供之儀は、不子細候事。

とあり、検分のために鷹狩りを用いている。子供がやっていいというのは身体練磨のためだろう。
またこれは信長ではないが毛利元就も、毛利家文書に残る中でも鷹狩りを身体練磨の方法と見ていたようだ。
信長自身、信忠に鷹を奨励している。

信長は鷹狩りにいつも六人衆と鳥見衆を連れて歩いていたようで、弓の腕がかわれてか、太田牛一は実は六人衆である。
いつでもどこでもお供しますなのだ。
だからこうした突っ込んだ話も書き残せたのだろう。
が、やはりどんなに訓練していても格好が並じゃない。世間からはうつけとしか映らないのも無理はないだろう。
現代の物差しで計ったっておかしいのだ。当時は相当おかしかったに違いない。


ちなみに鷹は同盟の証明としても機能するようになる。信長も140以上の鷹を手に入れているが、
同盟で手に入れたものも数多くある。
その中でも一番に信長に気に入られていたのが「しろの御鷹」である。
白いのは珍しい。そんな鷹が信長の手中に入るあたり、ほとんど権力が信長に集中していた、という事だろう。

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