首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
備後守病死の事

 信秀は病気にかかってしまった。さまざまな祈祷や、治療を施したが、その甲斐なく、終に天文18年三月三日、まだ42歳だというのにお亡くなりになった。生死無情の世の中はなんと悲しい事か。風がそよそよと吹いては草の露を散らし、空によどむ雲は満月の光を曇らせる。お寺を一つ立て、万松寺と名づけた。その寺の東堂を桃厳と名づけて、銭施行を行った。尾張国中の僧侶が集まって、盛大なお弔いだった。そのときに、関東のほうから修行中の僧もたくさん来て、総勢300人ほどになった。三郎信長、林、平手、青山、内藤などの家老が御伴となった。実弟の信行や、家臣の柴田権六、佐久間大学、佐久間次右衛門、長谷川、山田など以下、葬儀に参列した。
 信長が焼香に出た。そのときの信長のの格好は、長つかの大刀、脇差をしめなわでまいて、髪は茶筅髷に巻き立てていた。袴もはかずに仏前へでて、抹香をくわっとつかんで位牌に投げつけて帰ってしまった。信行はきっちりとした肩衣、袴をはいていて、威儀を正していた。三郎信長をまたあの大うつけだと皆がウワサしあった。その中に筑紫からの客僧が一人いて、あの人こそ国をまとめる人だと言っていた。
 末盛の城は信行に譲られ、柴田権六、佐久間次右衛門矢、このほかの家臣たちもそのまま信行にお譲りになった。
 平手中務丞には長男五郎右衛門、次男監物、三男甚左衛門と、三人いた。惣領の平手五郎右衛門はすばらしい駿馬をもっていた。三郎信長は譲って欲しいといったが、ことわり、私は武者ですから、お許しくださいと申し上げて進上しなかった。信長は相当執着していてたびたび催促をしたので主従の関係が不和になった。三郎信長は上総介信長と自称した。
 平手中務丞は上総介信長が真面目でない様子を悔やみ、これ以上守りたてても仕方ないので生きていても仕方ないと言い残して、腹を切ってお亡くなりになった。

ここの部分を読んでいるとどうしても平手の死因は諫死とは思えなくなってしまうのは私だけでしょうか。
諫死と思いたいですが。とってつけたような理由だなぁと思います。まあそれはいいとして。

信秀ダディ死亡の記事。
当時の葬式、死への観念はどんなものだったのだろうか。

死というのは、新たな旅立ちと考えられる事が多い。死者は旅装束で見送られる。
古代日本では殯(もがり)といい、遺体を三ヶ月から五年ほど安置する事が行われていた。
肉体は魂の入れ物と考えられていたのだ。特に大王クラスになると遺体と同衾したりして、魂の継承をしたらしい。
恐ろしすぎる。

しかし八世紀に入ると火葬が始まる。肉体=魂の入れ物といった考えはこれを持って衰退していく。
それでも平安末期の「餓鬼草紙」をみると放置された遺体がえがかれている所からして一般市民にはまだ火葬は広がっていないようだ。
中には犬に食われていたりする。恐ろしいと思っても当時の現状はそんなものだ。

大体一貫して中世に考えられていたのは輪廻転生の話である。
十王図(特に有名なのは閻魔大王)で有名な王たちの裁きを経た後、地獄・餓鬼・畜生・人・天の六道に生まれ変わり、
成仏しないとずっと生まれ変わってしまうという考えである。
その裁きの様子や、周りの鬼の役目などから見ると、どうも古代の戸籍の仕組みがそのまま地獄(あの世)観につながっているようである。

考古学的に残っているお墓などからたどると、
鎌倉時代辺りから数代にわたる家族墓が残されている。
つまりようやく個人的なものから、「家」というものが出来てきたのだ。
その後の供養も家単位で行うようになる。

今回の信秀の葬儀は尾張国内の僧が集まるという異例の葬儀だ。
もちろん、この「信長公記」だけを鵜呑みにするのはかなり危険だ。
当然この戦国の世では家単位の、つまり今の葬式に近い葬式が行われたわけだが、ここから
尾張国が二つに分かれていたとはいえ、相当信秀の影響力が強かったといえよう。
信長はその父の城も、家臣も信行にゆすってしまった。
これから信長が尾張統一へ走り出す。

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