首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
三の山赤塚合戦の事

天文22年癸丑の4月17日。
信長が19歳の時の事だ。鳴海城主山口左馬助、子息九郎次郎、彼は二十歳であったが、この父子は信秀が目をかけていたが、亡くなったので、すぐに謀反を企て、今川勢を引き入れて尾張国へ乱入させたといううわさが立った。
鳴海の城には子息山口九郎次郎を入れて、
笹寺に砦、要害を築いて葛山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎の五人を入れた。
中村に陣をしき、父山口左馬助が立てこもる。
こういったときに、4月17日、信長は800ばかりの兵で出陣、中根村をかけ通り小鳴海へ移り、三の山に陣をひいた。
すると、敵の山口九郎次郎が三の山の15町ほど東、鳴海より北にあり、15.6町先の赤塚の村へ九郎次郎が1500ばかりの兵で出陣した。先手足軽に清水又十郎、柘植宗十郎、中村与八郎、荻原助十郎、成田助四郎、芝山甚太郎中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、荒川又蔵がいた。これらを先陣として赤塚に移った。
信長は三の山からこの様子を見て、すぐに赤塚に兵を寄せた。こちらの先手足軽衆は荒川与十郎、荒川喜右衛門、蜂屋般若介、長谷川挨介、内藤勝介、青山藤六、戸田宗二郎、賀藤介丞。敵と5.6間離れて向かい合い、矢戦になった。荒川与十郎が兜の下の額を深く射られ、落馬した(討死した)ので、敵方がそのすねをとってひき、またのし付の刀をとろうとする者もいた。味方からは首と胴体を取って、その亡骸を取り合った。そのとき与十郎がさしていたのはのし付の長さが一間、広さは5.6寸にもなる立派な刀だった。鞘の方をこちら側に引いて、終にのし付の刀も首も胴体も味方が引き取る事になった。午前十時から十二時ごろまで乱れあって、戦いあってはひき、又まけるものかとかかっては戦ってひき槍を押さえつけたため敵方で荻原助十郎、中島又二郎、祖父江久助、横江孫八、水越助十郎が討死した。あまりにもわかりやすかったので首は互いに取らなかった。
信長の軍勢で30騎が討死した。
荒川又蔵を生け捕った。
赤川平七が生け捕られた。
入り乱れて激しい戦いになり、4.5間離れてにらみ合いが数時間続いたが九郎二郎が優勢であった。そのことをこの頃上槍、下槍と言う事があった。どちらの軍も、顔見知りだったので互いに気の緩みはなかった。立ち入った事であるので馬は皆敵陣へ帰した。そしてまた、少しも間違えることもなく馬は帰っていった。捕虜も返した。そしてその日に、信長は帰陣した。
天文22年=天文21年の謝りか。信長19歳の年は21年である。

山口左馬助が謀反を起こした、と言う記事である。

ところが、これは単なる謀反の記事ではない。なぜ信長がわざわざあわてて出陣したのか、という重要なところに目を向けなければならない。

記事によれば、謀反を起こしたと言うのはあくまで「沙汰の限りの次第」であり、実際に得た情報ではない。
事実であったためウワサに翻弄される、という馬鹿は見なかったものの、普通は事の真実を見極めたうえで戦に出かける。
注目しなければならないのは左馬助がやったことである。

そう、今川勢が入ってきたのだ。
今川義元は三河から尾張への所領拡大を目指していた。そのため、織田方の武将に対する働きかけをしていたのだ。
当時、信長の信用は薄い。家督を継いだばかりで、ましてや大うつけといわれていた時代である。
織田の将来に不安を抱く武将は多くいた。
一人が今川につけば芋づる式に他の武将も寝返りかねない。

それだけではない。今川義元が送り込んだ武将たちは今川の精鋭とも言える武将たちなのだ。
葛山氏も飯尾氏も一つの城を任されるほどの武将であるし、三浦氏と言えば、朝比奈氏と並んで今川の「両家老」と言われた武将である。
「絶対逃さないぞ、所領にしてやる」という義元の並ではない心意気が感じられる。

今川義元は愚将とよく言われるがそれは過ちである。桶狭間を見てはいけない。この時代はまずその前の段階なのだ。
義元といえば東海一の弓取り。下手をすれば天下一の軍団だったのだ。

その精鋭がやってきたのだ。織田家ピンチである。
結局のところ痛みわけで、勝敗はついていない。この戦のため、しばらく信長の苦難の道は続く。

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