首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
深田・松葉両城手かはりの事

八月十五日に清洲側の坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位が団結して、松葉城へ攻め入り、そこの城主織田伊賀守を人質に取った。
また深田というところの織田右衛門尉の居城があるが、そこも同じように攻められた。人質を取って明らかに敵対の意を表した。
信長はちょうど19歳の暮れの八月であったが、このことを聞いて16日払暁に那古野を出発し、稲庭地の川端まで出た。守山から織田孫三郎信光が駆けつけて
松葉口、三本木口、清洲口と三手に分かれて攻撃を仕掛け、川を越えて信長と信光は一緒に海津口へ攻め入った。
清洲から三十町ほど踏み出した、海津という村に移った。
信長は8月16日の午前8時ごろ、東に向かって戦い、数時間激しい戦闘となった。信光の家臣で小姓の赤瀬清六という男は今までも勇ましい戦いをする人だったが、この戦いでも先を争い坂井甚介に攻めかかったが、激しく戦った結果、討死してしまった。終には清洲衆が負け、坂井甚介は討死した。首は中条小一郎と柴田権六勝家がともに討ち取った。このほかに討死したのは坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与をはじめとして歴々50騎ほど、みな一緒に討死した。
松葉城へは20町ぐらいのところまで進み、砦を囲んで敵を追い詰め、真島の大門崎のところで踏ん張っているところを午前8時ごろから12時ごろまで戦った。数時間の矢戦に敵のけが人は多くでてしまい、無人になって松葉城へ引き上げる時に赤林孫七、土蔵弥介、足立清六を討ち取った。
一方深田城へのほうは、30町ほど進軍して三本木の町を取り囲んだ。これといって要害がないところだったので、すぐに攻めかかり、伊藤弥三郎、小坂井久蔵をはじめとして、屈強のさむらいが30人ほど討死した。
このため信長は深田城と松葉城、両方へ陣を進めた。清洲側は降参し、城を明け渡し、清洲城一つへ引き上げていった。信長は清洲へ兵を進めたが城攻めをせず、近くの田畑を荒らして引き返していった。
松葉口=松葉城の事。
三本木口=深田城の事。
清洲口=清洲城の事。

全項の山口左馬助の謀反といい、踏んだりけったりの信長勢。
今度は清洲側の織田家との戦いである。

これはまた織田家内部の抗争ではあるが、もう少し違った様子を呈している。
というのも、信秀一門の中での話ではないのだ。

系図を見ていただければわかるが実は当時の清洲城主・織田信友はれっきとした清洲織田家主流である。
信秀はそこから外れた者であり、ゆえに反信秀勢力の一番の元となっている。
信友の気持ちを言えば「あんた生意気よ!あたしなんて主家だし下四郡の守護代なのよ!」といったところか。
と、かねてから思っていた信友たちだが、ここでその「生意気」な信秀が死んでしまったものだからここぞとばかりにのろしを上げたのだ。

何よりもあとを継いだ信長はまだまだ弱卒であったし、左馬助にそむかれたりと、決していい状況ではない。
ましてや末盛の城では弟の信行が信長から当主の座を虎視眈々と狙っている状況。
今がチャンス!と重臣・坂井大膳に攻撃させるが、逆に討ち取られ、しかも惨敗をきしてしまう。

ちなみにここに見える柴田勝家は当時信行についていた。
まだ露骨に信長に反旗をひるがえしてはいないが、密かにその隙を狙っているじきともいえよう。
何故その彼が参戦しているか、というとそこは信行を思っての事だろう。
もし信友の軍勢に信長が敗れれば、反信秀を言う信友の次の狙いは紛れもなく信行だ。
清洲の一件がつき次第、反旗をひるがえしているのでおそらくそうであろう。

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