首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
簗田弥次右衛門御忠節の事

武衛の斯波義統の臣下に梁田弥次右衛門という一角の男がいた。なかなか知恵の働く男で、知行をたくさんもらって、大名になった。その仔細はこうだった。清洲に那古野弥五郎という16,7歳の若い男がいた。この男は300ほどの兵をかかえていた。いろいろと嘆いて二人は深い仲になり、清洲を引き割り、信長に味方しようともちかけた。また家老の者たちにも言ってみると、みな欲にかられ賛成した。そして弥次右衛門は信長のところへ来て、仕える事をよくよく申し出た。信長の機嫌はとても良かった。なので信長は兵を清洲へ向け町を焼き払い、はだか城にしてしまった。信長自身も出馬したが、城がとても堅固でありまた兵も立てこもっていて、武衛の斯波義統も城の中にいたので、隙を見て攻める算段を立てようといい、清洲城を外から攻めるのをやめた。

……この深い仲というのは男色の事である。
嘘だと思ったら信長公記を見てください。しっかりと記述されている。
(以下は男色についてなので嫌いな方はスルーしてください。
そんなすごいことはかきませんが一応反転とします。)

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織田信長と男色、といえば森蘭丸を思い出す人もいるだろう。
確かに小姓という仕事は年中無休の秘書・総務・ソープ嬢を兼ね備えた職だったと言ってもいい。
女を戦場に連れて行くことは出来ず、そのためいざというときには戦力にもなる……
戦国武将にとって男色はある意味ステータスで、その相手の小姓を粗末にするのはどうしようもないと見られていたようだ。
光秀はその小姓に対して冷遇したとも言われ、当時小姓の間では「いやなお客」であったらしい。
現代に生まれてくればまだましであった光秀の評判というか。

それも主君と小姓関係であればエリート、といわれる。
後年の安土城落成の式で前田利家はそのことを言われた。
周りからは羨ましいという目で見られたそうだ。

そのくらい大きな影響力を持つ関係である。
この梁田弥次右衛門という人物も那古野弥五郎という人物とそのような関係にあったのなら、
勿論弥次右衛門だけでなく、おそらく那古野弥五郎も信長の軍門に下ったのだろう。

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この事件を経て、信長はじわじわと清洲への包囲網を縮めていく。
ただここはやはり尾張一の堅城。攻めることは不可能のようだった。

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