首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
柴田権六中市場合戦の事

七月十八日、柴田勝家が清洲に攻め入った。足軽衆に安孫子右京亮、藤江九蔵、太田又助、木村源五、芝崎孫三、山田七郎五郎。これらが山王口で戦った。敵は追い詰められたがそこは貧しい村だったので応戦することが出来なかった。誓願寺前で応戦したが、終に町口の大堀の中にまで追い詰められてしまった。河尻左馬丞、織田三位、原、雑賀が切って2〜3間叩き合ったが、敵の槍は長くこちらの槍は短いといった状態で、つきたてられてしまったが、一歩も引かずに討死した者がいた。河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理、原、八板、高北、古沢七郎左衛門、浅野久蔵など、30騎ばかりが討死した。武衛様の勢力のうち、由宇喜一という、未だ17,8歳の若武者は、鎧もつけず湯帷子のままで乱れ入り、織田三位の首を取ってきた。武衛様が謀をしていたとはいっても、昔から仕えてきた主君を示威してしまった因果であることは歴然としている。七日しかたっていないというのにみんな討死してしまった。天道とは恐ろしいものだ。
太田又助=太田牛一、つまりこの「信長公記」の作者

大きく晩年の織田家臣団の一人を取り扱った記事では初めてではないだろうか。
柴田権六、つまり北陸方面で総司令官を務めた柴田勝家の姿である。

武衛様、と記事もあるところから、おそらく柴田勝家はどこぞのゲームで言うような
「力こそすべて」では攻めかかっていないようだ。
勿論信秀一族の信行配下の柴田勝家である。
敵であるからにはせめて当たり前、なところもあっただろうが、
わざわざ斯波義銀の勢力を参加させている。
記事の様子からして苦戦した様相もない戦で、である。

当時の人から見れば戦は勝つか負けるか時の運というところがある。
ゆえに一つ一つの戦を心してかかったのだろうが、この戦は清洲勢がすでに引き目である状況で起きた戦である。
わざわざ斯波義銀の勢力を参加させたのにはわけがあった。

尾張守護職斯波氏。それを清洲織田氏が攻め滅ぼしてしまった。
前にも書いたようにこれは下剋上である。
ということは、このまま放っておくと清洲織田氏が尾張の戦国大名になることが可能である。
那古野織田氏は少しだけ遅れをとっていたことになる。

しかし斯波氏はまだ生きている。
義銀としては父を殺されたのだ。いつ弔いのチャンスが来るかと待ち望んでいるはずである。
そこに目をつけたのだ。

つまり「我らが主君斯波氏を弑した逆賊を討つ、斯波義統の弔い合戦」という「大義名分」を掲げたのだ。
あくまで「大義名分」である。実際のところ斯波氏を掲げる気など毛頭ない。

この記事について「柴田軍が名もない足軽衆ばかりなのに、清洲方は名のある武士ばかりで、それも討死しているから
きっと信長の戦争の仕方が違ったに違いない」といっている人もいる。
確かに長い槍を使っているところがそうかもしれないが、だからといってそう結びつけるのはどうだろう。
信長は能力のある人材を登用し、その人の力にゆだねるところが多かった。
信長がこの戦の戦略に口出ししていればこの記事に少しでも残るはずである。
記しているのが足軽衆に登場している太田牛一であることに注目してほしい。
自分の軍のほうが相手の軍の事よりも詳しいのは当たり前である。

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