首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
村木の取出攻めらるゝの事

そうしている間に、駿河今川勢が岡崎に陣取り、鴫原の山岡へ攻め込み、のっとってしまった。今川勢は岡崎から移って鴫原の山岡上を根城にし、小河の水野忠政の城へ攻め込む為に、村木というところに頑丈な砦を作って立てこもった。そのうえ、寺本城も今川へ人質を送り、今川方についてしまった。そのため陸路での救出の道が閉ざされてしまった。信長は後巻として出陣しようとした。
しかし敵である清洲織田氏が留守の時に那古野へ攻めかかり、町に放火されては元も子もないと思ったので、信長の舅である齋藤道三へ城の警護の武士を援軍に頼んだ。道三は1月18日、那古野の留守番の大将に安藤守就を命じ、田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五など兵を千人ほどおくり、どんな様子かを日々注進しろといった。安藤はその通りにした。1月20日、美濃勢は尾張へ入った。居城那古野の近くの志賀と田幡に陣を張った。20日に信長自身が陣取り見舞いに出て安東に礼をした。翌日出陣しようとしたところ、家老の林秀貞とその弟・美作守が不服だといい、林の与力である荒子の前田利昌の城へ引いてしまった。御家老衆はどうしたんだろうと思ったが別にまずくもないと信長は言い、出陣した。
その日はものかはという馬に乗り、1月21日に熱田に泊まった。
22日はとてつもない台風だった。海を渡るのは無理だと、主水・舵取の者が言った。「
昔の渡辺・福島で逆櫓を言い争った時の風も、こんなにひどくはないだろう。どうか海の静かな時に船を出させてください」といっていたが、無理に20里ばかりのところを、ただ半時ほどでわたってしまった。
その日は野陣をかけ、すぐに小河へ向かい、水野忠政に会い、今の状況を注意深く聞いて小河で泊まった。
1月24日払暁に出発し、今川勢が立てこもる村木城へ攻めかかった。しかし北は難所で攻められそうなところはなく、東は表門、西は裏門である。南はかすんで見えないほどの大きな堀が甕のようにほりあげてあって、とても攻めにくそうだ。
信長はその南側の攻めにくいところを攻めた。若武者達が我劣らじと堀を登り、突き落とされてはまた上がりを繰り返し、死傷者が続出した。信長自身堀端に出て、狭間を三つ自ら落とすといい、鉄砲を取替え取替え放った。信長が命令する間も、皆我も我もと攻め上がり、堀に取り付いて突き崩した。
西の裏門は織田信光が攻めた。外丸の一番に六鹿という者が名乗り出た。
東の表門は水野忠政が攻めた。
城内の者は比べ物にならない働きを見せた。しかし隙もなく攻められて、城内も死傷者が出、だんだん人がいなくなってきたので、降参を言ってきた。もっとも攻め滅ぼすべきではあったが、こちらも死傷者が塚を築くほど多くなっていた上に、すでに薄暗くなってきていたので、謝罪の言葉通りにやめ、後を水野忠政に任せた。信長の小姓もたくさん死傷者が出ており、目も当てられない様子だった。午前8時ごろ攻めかかり、午後5時まで攻め続け、ようやく落とした。本陣へ帰り、信長はそれもそれもと言って、感涙した。
翌日は寺本へ兵を進め、麓を放火し、それから那古野へ帰陣した。
1月26日、安藤の陣所へ信長自身出向いて、留守を守ってくれたことへの礼を言った。27日には美濃衆は帰って言った。安藤はこの礼の事や、難風渡海のこと、村木を攻めた時の様子をよくよく道三に報告したところ、道三はこう言った。
「すさまじい男だ。隣にはいてほしくないものだな」と。
構=かまえ
昔の渡辺〜の風=下参照

まず、お城〜というと大阪城や姫路城などといった石垣に天守閣が定番のイメージであるが、当時の城は私たちの想像とは少し違う。

中世のお城には石垣はあまり見られない。今日見ている石垣のお城は戦国末期、または江戸初期のもので、西国式の城である。
もっともどこから西国で、どこから東国に入るのか、というのは難しいところであるが、とにかく、城という漢字がそうであるように、土の上に成っているものだった。
まだこの時代は安土桃山の時期とはいえないし、北側が難所、と書かれているところも含め、山城に近いものだったといえる。
また小河の城を攻めるための臨時の城(寧ろ要塞)であったため、まず石垣はなかったとおもったほうがいい。
つまりただの土のかべである。堀を掘っただけ、というわけだ。じゃあ彫った土は??ということで甕のように彫り上げてあるのである。
起伏があれば攻めにくく守りやすくなるのだ。

城は形を大きく変えていく。鎌倉初期まで戻れば、実は堀は環状ではなく放射線状であったというわけだから驚きである。

そして今回のお題(?)その二。
古文書などを読んでいく上で、引用が出て来る時もある。私たちは時を隔ててしまっているため調べないとわからないこともある。
上の「昔の渡辺・福島で逆櫓を言い争った時の風」というのもそうだ。
どのくらい昔??信長が何歳の時だろうとか考えてはだめなのだ。
実はこの逆櫓、平家物語の一幕である。信長なんてまだお母さんのおなかの中にもいない。
その時になぞらえていっているのである。この場面は有名なため浄瑠璃にもなっている。
興味のある方は平家物語巻十一を読んでみることをオススメする。



でも、「古文なんて学校の授業以外読みたくない!!」という方の為に。
あくまであらすじです。私の主観が入りまくってます。


<前略>
2月16日、渡辺・福島の港にそろえておいた船の綱をさあ解こうとしていた時である。
木を折るほどの激しい北風が吹いて、波が荒れ、船が壊れてしまった。その日は修理におわれることとなる。
渡辺にいる武士達はみな東国出身で、海での戦はまだなれていない。どうするべきだろうと評定を開いていた。
梶原景時「今度の合戦には船に逆櫓をつけたらどう?」
源義経「サカロ?なんだそれ?」
景時「馬はほら、攻めようとおもったときに攻められるし引こうとおもったときに引けるじゃん??弓もそうだけどさ。
    船はそううまくいかないんじゃない??だから舳と艫に(船の前後に)櫓をつけてさ、側面にもつけてどっちの方向へも動けるようにしようよ」
義経「お前どこの出身だよ??合戦って言うのは少したりとも引こうとおもわないでやって、仕方ない時に引くもんだろ??
    そんな逃げる支度なんてしていいことあるのか??ねぇだろーが。お前の船に逆櫓をつけてもいいさ。つけたきゃ100でも1000でもつけろよ。
    俺はつけねぇからな」
景時「立派な将軍って言うのはさ、攻める時に攻めて、引くときには引く。その身を全うして敵を亡ぼすっちゅーもんだろ?
    そんなふうに融通の利かない考えのヤツは猪武者って言うんだぜ?」
義経「猪だか鹿だかしらねぇが、俺はひたすらに攻めて攻めて攻めまくるのが好きなんだよ!」
その日から義経と景時は仲間割れした。
<中略>
義経「よっしゃ!早く船出そう」
舵取「順風なんだけど、ちょっと風がつよすぎるだで。沖だともっとすごいことになっとるだ」
義経「もー俺キレた。風が怖くて沖に出ないっていうのかよ!!
    野山で野垂れ死んでも、海川で溺れ死んでもそれって前世の宿業だろーが!!向かい風ならわかるけどな、
    追い風なんだろ?何で怖がって船ださねーんだよ!!早く出せよ!じゃねぇとお前らみんな射殺すぞオラァ!」
弁慶などなど「命令だゴルァ!早く船出せ!じゃねぇと殺すぞ!!」
舵取「ひぇ〜!!射殺されるんじゃどうせ死ぬんだ。風も怖いけどこぎ続けて死んだ方がましだー!!」
そうして200艘の船のうち、たった5艘だけが沖に出た。後の船は景時が怖いのか風が怖いのか、出なかった。
<後略>


信長……こんな義経のように脅しつけたのだろうか……

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