首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
勘十郎殿・林・柴田御敵の事

 一、守山城に孫十郎の家老達が立てこもっていた。立てこもっている兵は、角田新五、高橋与四郎、喜多野下野守、坂井七郎左衛門、坂井喜左衛門、その子の坂井孫平次、岩崎丹波源六など、これらが立てこもっていた。信行より柴田勝家、津々木蔵人を大将として遣わされ木ヶ崎口を攻めた。信長は飯尾近江守、その子讃岐守、そのほか諸勢に頑丈に取り囲ませた。
 一、織田信広という男は、信長の異母兄である。その弟に信時という賢い男がいた。あるとき佐久間信盛が信長に申し上げ、信時に守山城をやった。守山城の家老角田新五、坂井喜左衛門が謀反したので、信時は守山城主になれた。この忠節により、下飯田村屋斎軒分の知行百石を信時は信盛に与えた。
 一、そうしているときに、信長の家老林秀定、その弟美作守、柴田勝家が申し合わせて三人で信行を守り立てようとして謀反を起こそうとしているといううわさが立った。信長はどう思っただろう。
 五月二十六日に、信長と信時のたった二人で、清洲城から那古野城の林秀貞のところへ出かけた。いい機会だからここで殺してしまおうと弟の美作守が言ったが、秀貞はあまりにも面映く思ったのか、「三代にわたってご恩をいただいてきた主君だ。おめおめとここで信長に襲い掛かり、討ち果たしてしまうとはその後の天罰が恐ろしい。とてもよくないことだから今は殺してはいけない」といって、信長の命を助け、返してしまった。一両日たってから、反旗をひるがえした。林の勢力下にあった荒子城が熱田と清洲を分断し、謀反を起こした。米野城、大脇城も清洲と那古野の間にある。これらも林の勢力下であったので、いっせいに謀反した。
 一、これは守山城の中での出来事である。坂井喜左衛門の子孫平次が若衆になり、孫平次は並ぶものがないほどに頭角を現した。このため角田新五は忠節を誓ってはいたのだが、角田に嫉妬し始めた。無念に思い、守山城中の塀や柵を作り直すと申し出て建て直しの半ばで土居の崩れたところから兵を引き入れ、信時を自刃させた。岩崎丹波源六たちが引きついで、城を堅固に作り直した。このようにかわった。
 一、織田信次は長々と放浪していたが、不憫に思ったので許してやり、守山の城を信次へやった。のちに河内長島の戦いで討死した。
 一、林兄弟の才覚で、信長・信行兄弟の仲が悪くなった。信長の直轄地、篠木三郷を奪い取った。川に沿って砦を構えさせ、川の東側の直轄地をとられる前に、こちらから討ってでることになった。
 八月二十二日、於多井がわを越えた名塚というところに攻めかかり、佐久間重盛を入れおいた。翌二十三日、雨が降って川の水量が上がってきた。その上砦のつくりがうまくいく前とおもったのか、柴田勝家軍千人、林美作守軍七百が出てきた。
 弘治2年丙八月二十四日
 信長も清洲から兵を出し、川を越して先手の足軽と戦った。柴田権六軍千人で稲生村のはずれの街道を西向きにかかってきた。林美作守は南の田んぼの方から七百人で北向きに信長へ向かってかかってきた。信長は村はずれから六段から七段引き下がって、軍を建て直し、信長軍は七百以上にはならないといった。東の藪のあたりに陣を張った。
 八月二十四日。12時ごろ南東に向かって、まず柴田軍へ大半が襲い掛かった。散々に叩きあい、山田治部さえ門が討死した。首は柴田勝家が取り、怪我を負って逃げていった。佐々政経、そのほか屈強のものたちも討たれ、信長の前に逃げかかってきた。この時信長の前には織田勝左衛門、織田信房、森可成、槍持ちの中間40人ばかりだった。信房、可成のふたりは清洲衆の土田の大原をつき伏せ、もみあって首を奪った。ふたりで信長に襲い掛かろうとしたところ、信長が大音声を上げ、怒った。すると敵はひるみ、流石に身内のものであったため、威光に恐れ、たちとどまり、ついには散り散りに逃げ崩れた。この時、信房の下人、禅宗は神戸平四郎をきりたおし、信房に首を取ってくださいといった。信房はいくらでも切り倒しておけといって、先に戦うことを心がけた。信長は南へ向かって、林美作の軍へ戦いを挑もうとした。黒田半平と林美作がしばらく討ちあった。半平の左の手首が切り落とされ、互いに息を何とか継いでいたところに信長が美作守に襲い掛かった。そのとき、織田勝左衛門の小姓のぐちう杉若がよく働いたので、杉左衛門と名を改めた。信長は美作守を突き伏せ、首を取って無念をかなえた。柴田軍も林軍も追い崩した。そうして家来に馬を引き寄せさせた。馬に乗って首を取った。その日に清洲城に帰った。翌日に首実検を行った。
 林美作守の首は、信長賀討ち取った。鎌田助丞、津田左馬丞を討ち取った。富野左京進、高畠三右衛門討ち取る。山口又次郎、木全六郎三郎討ち取る。橋本十郎、佐久間重盛討ち取る。角田新五、松浦亀介討ち取る。大脇虎蔵、かうべ平四郎などはじめとして、450あまりの首が取られた。
 この戦いの後は那古野城、末盛城は篭城になった。この二つの城の間にたびたび押し入って、城下町まで焼き払った。
 信長の生母土田御前は末盛城に信行と一緒に住んでいた。村井長門、島田所之助のふたりを清洲城から末盛城に召し寄せ、土田御前の使いとしてさまざまに詫び言を伝えたので、信長はこれを許した。信行と柴田勝家、津々木蔵人が墨衣で、土田御前も一緒に清洲城に現れ、その礼を伝えた。林秀貞も、普通ならば出仕はかなわないところだが、命を襲おうとしたときの事を秀貞は覚悟を持って自供した。そのときの事を信長は思い出し、このたびは許すことにした。

な、長い……疲れた(こら
というわけで読むだけで疲れそうな章である。現に疲れた。考察ほったらかして眠ってしまいたい。

かなりの激戦であったらしく、大将の信長のすぐそばまで敵軍が迫ってきている。
彼自身出陣しているが、主力決戦はあまりのぞまれない形であるため、信長自身、どうにかしたい戦いだったのだろう。

結果はどんでん返しで信長の勝利に終わるが、信行・勝家など、負けた軍の将が墨衣で来るということがのっている。
どういうことだろう。

目は口ほどにものを言う、とよく言うが、戦国時代、服装は口ほどにものを言ったらしい。
たとえば戦国時代をベースにしたゲームでは、武将が鎧姿で会議に臨むなんてことはよくある。
がもしタイムスリップしたら決してそんなことをやってはいけない。
具足をつけてくる=軍事行動を意味し、戦う意思があることになる。
これは戦国時代のマナーである。
たとえば毛利家では戦場に具足をつけていかなければ戦う意思なしとし、所領を没収されたりしてしまう。
(毛利元就が井上一族粛清の時に書き付けた起請文)

そこで、この墨衣だが、これは坊主の格好である。
もうこれ以上は対抗する気はありません、あなたに屈します、という意思表示にこの格好が取られた。
頭を剃るというわけだ。当時は髷やひげがある程度威厳を現すものであったため、これは屈辱になる。
相当信長が怖かったのかもしれない。林秀貞も柴田勝家も、その後は忠実に働くことになるのだ。

退却