首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
天沢長老物がたりの事

 天沢という、天台宗の坊主がいた。一切経を二度納めた人である。あるとき、関東へ東下りをしたとき、甲斐国でであった奉公人に「武田信玄に一礼して行け」といわれたので、会いに行った。「上方のどこの国から来たのか」と、先ず国を聞かれたので「尾張国からきました」と答えた。郡を聞かれたので、「信長の居城から50町東の、春日原のはずれの味鏡という村にある、天永寺という寺に住んでいます」と答えた。すると、「信長の様子をありのまま残らず言え」といわれたので、(天沢は)申し上げた。「毎朝馬に乗り、橋本一巴を師に鉄砲稽古、市川大介を師に弓稽古、いつも平田三位というものを近くに置き、兵法を学んでいます。舞と小唄が好きです」と申し上げると、(信玄が)「幸若太夫は来ているか」とおっしゃるので、「清洲町人で友閑というものをしょっちゅう召し寄せて、まわせています。敦盛の舞の一番以外は舞いません。『人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり』これを口ずさんで舞います。また、小唄が好きで歌っています」と申し上げると、「変わったものが好きなのだな」と信玄がおっしゃった。「それはどんな歌か」とおっしゃるので、「『死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの』これがその歌です」と申し上げると、「少しそのまねをしてくれぬか」と信玄がおっしゃった。(しかし天沢は)「出家の身ですので、言うまでも無く、そのような事はできません」と申し上げたが、是非にというので、まねをした。
一切経=仏教の経典を全部集めたもの。
天永寺=味鏡山天永寺。現在は北区楠町味鋺 堂の前にある護国寺。天沢により再興された。

ここの部分はあまり資料としてはどうかという事になります。
太田牛一自体聞き伝えられた物を書いているような記事であるからだ。
しかし、そういう記事が書かれているというのが、その時代の背景を見ていかなくてはならず、正直めんどくさい面白い記事でもある。

まず、武田信玄の話が出ているが、なぜ奉公人が天沢を信玄に合わせようとしたのか。
正直そこらへんの坊主である。わざわざあわせる利点が無い。
時期的には前後するかもしれないが、この後桶狭間合戦の話が出てくるので、その前後だと考えると大体1860年ごろだと仮定できる。
すると信玄側はどんな状況だったかというと、1561年に第四回川中島の戦いを行っており、外交的にもだいぶ神経が立っている時期だ。
だから上方や領土外のことが気になっていた、としても取れる。
また1565年に勝頼(信玄の四男)が信長の養女を娶っているあたり、信玄と信長につながりがあったことも見える。
ひょっとするとどんな男だろう、と興味を持ったのかもしれない。
特に政策や、民との結びつき(これが戦国時代を見ていく上で最重要になる項目になる)を聞くのではなく、
信長の人となりを聞いているあたり、ひょっとすると軽視していたのかもしれない。
というのも、せっかく尾張から来た坊主がいるのである。
民衆の話は民衆にきいたほうが早い。
とすると、何で信玄は尾張に興味を持ったのか。

こればかりは太田牛一に聞かなければわからない。
いや、彼にもわからないかもしれない。

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