首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
今川義元討死の事

 天文二十一年壬子五月十七日、
 一、今川義元が沓懸へ参陣した。十八日夜になって、大高の城へ兵糧をいれたので、織田軍の援軍がこれないように、十九日の朝、満潮のときに砦に攻めかかるだろうと予想がたった。十八日の夕方に、佐久間大学の丸根砦、織田玄蕃の鷲津砦から報告が入ったが、その夜の清洲の軍議では具体的な方策などはまったくなく、色々な世間話をしただけで、すでに夜も深くなったので帰れと、家臣たちを帰らせてしまった。家老の衆が言うには、「運の尽きるころには知恵の鏡も曇るというが、まさにこのことだ」と、それぞれ嘲笑して帰っていった。案の定夜明けがたに丸根砦、鷲津砦から兵に攻められているという内容が次々と注進された。このとき信長は、敦盛の舞を舞った。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかと謡うと、「法螺を吹け」「具足を用意せよ」と仰せになった。鎧を着込み、立ちながら食事をし、兜をかぶると、出陣なさった。そのときのお供には小姓の者たちがついた。
 岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎
 この主従六騎が熱田神宮まで三里を一気に駆け、午前八時ごろに
上知我麻祠の前から東を眺めると、鷲津、丸根の二つの砦は落ちたようで、煙が上がっていた。このとき馬は六騎、雑兵は二百ほどであった。海岸沿いに兵を進めれば、敵に程近く近づけるが、満潮で馬が通れる状態ではなく、熱田から内陸の道をとにかく駆け、まず丹下砦へでて、それから善照寺、佐久間が陣を張っている砦へ向かい、兵を整え、準備をさせて、戦況を把握した。
 敵の今川義元は、四万五千の兵を率いて、桶狭間山に休憩していた。
 
天文二十一年壬子五月十九日、正午、勢いにのって鷲津、丸根の砦を攻め落とし、大変満足していたので、義元は謡を三番謡わせていた。このとき家康はまだ朱武者であったので、先鋒を命じられ、大高へ兵糧をいれから鷲津、丸根攻めにこき使われ、相当に疲れていたため、大高で休憩していた。
 信長が善照寺に来たというのを知って、佐々隼人正、千秋四郎の二人は、兵300ほどを連れて義元へ向かっていった。足軽がでてきたのでどっと押し寄せたが、不利な状況であり、千秋四郎、佐々隼人正をはじめとして、50騎場狩りが討ち死にした。これを見て義元は「私の矛先には天魔鬼神もかなわないだろう。心地いいことだ」と、喜んでゆっくり謡を謡わせ、陣をすえていた。信長がこれを知って中島へうつることを言うと、家老たちは脇は深田で足を入れることができず、一本道である。われわれが小勢である事が敵のほうからは丸見えであると、馬の轡を引いて声々に申し上げたが、ふりきって中島へとお移りになった。このとき、2000に足らない兵士であった事を言っておこう。中島よしまた、兵を出した。今度は家老たちは無理にでもすがりつき、止めようとしていたが、ここで信長は、「みな、よく聞け。あの敵は宵に腹ごしらえしてから夜通し来た者だ。大高兵糧をいれ、鷲津、丸根を攻めて苦労し、着かれきっている武者である。こちらの味方は新手である。その上、小さな軍で大敵を破る事を恐れるな、運は天にありというこの言葉を知っているだろう。敵に攻められたら引け、退こうとしているのならば攻めかかれ。必ず練り倒し、追い崩せ。他の将などを捕らえて自分の手柄にするな。打ち捨てておけ。戦に勝てば、この場にいるものは家の面目は末代まで高名であるだろう。ひたすら励め」と命令した。
 前田又左衛門、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人
 これらのものが首を持ってきた。前の命令を彼らに言い渡し、山際まで兵を寄せたところに、急に村雨が降り、石や氷をなげうつように敵の顔に打ちつけた。味方には後ろのほうに降りかかっている。沓掛の峠の末の下に、ふた抱えもする楠木が、雨で東へ倒れた。あまりの事だったので、熱田大明神のお力かと言い合った。空が晴れてくるのを見て、信長は槍を取って大音声で「すは、かかれ、かかれ」というと、黒煙を立てて今川勢へ襲い掛かった。それを見て今川勢は水をまいたように後ろへくわっと崩れた弓、槍、鉄砲、のぼり、指物は算を乱し、義元の塗輿も捨て、崩れ逃れた。
 天文二十一年壬子五月十九日、
 義元の本隊はこれだ、攻めかかれと下知があった。午後二時ごろ、東に向かって攻めた。はじめは300騎ほどが丸く義元を囲んで引いていたが、二、三度、そして四、五度と打ち合いきりあいする内に、次第に人はいなくなり、最後には50騎ほどになっていた。信長も馬から下りて織田軍の旗本に混じって突き伏せ、突き倒した。周りの者たちも乱れかかって鎬を削り、鍔を割り、火花を散らすといった激戦を広げた。そうはいっても、敵味方どちらが勝つか、まるで色が定まらなかった。ここで馬廻や、小姓たちの負傷者は数え切れないほどになっていた。服部小平太は義元に襲い掛かったが、膝を着られ倒れた。毛利新介が義元を打ち伏せ、首を取った。これはひとえに、専念清洲城で武衛様が遭難したときその弟を一人生け捕りたすけた、その冥加であろうと人々はうわさしあった。
 運の尽きたしるしだろうか、桶狭間というところは、谷間が多く、深田や斜面といったところが多くあった。深田へ逃げはいったものは、足をとられ動けなくなっているところを若者たちに追いつかれ、二つ三つずつ首をとられ信長の前へと持っていかれた。義元の首をご覧になり、たいそう信長は喜んだ。もと来た道を帰陣した。
 一、信長の父織田備後守が年々目をかけ、鳴海の城にいた山口左馬助・九二郎郎父子。思いもかけず備後守がお亡くなりになると、程なく恩を忘れ、信長へ敵対し、今川義元へ忠節をし、居城の鳴海へ今川勢を引き入れ、知多郡を支配した。その上愛知郡へ押しはいり、笠寺というところに要害を構え、岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助が在城させていた。鳴海には息子の九郎二郎を入れおき、笠寺の並び中村の郷に砦を構え、山口左馬助は陣を張った。このように重ね重ね忠節を尽くしたのに、駿河に左馬助、九郎二郎は呼ばれ、褒美は少しもなく、無情にも無碍無碍と殺された。道義の衰え乱れた末の世とはいえども、そんなに月日はたっていない。今川義元は山口左馬助の在所へきて、鳴海で45000の大軍をつれてきたのに、それも用に立たず、わずかな信長の2000の兵にたたきたてられ、逃げ死んだのは、浅ましい事である。因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしいものである。
 山田新右衛門というものは、駿河国出身の者だ。義元が特に目をかけていたものであった。義元が討死したという知らせを受け、馬を引きかえらせて討死した。命は義によって軽くなるというが、このことである。二股城主松井八郎、松井一門一党に百人は枕を並べて討死した。歴戦の武者が、ここに討死した。
 河内二の江の坊主、うぐいらの服部左京助は、義元へ向かい、戦舟を1000艘ほど出したが、海の上は蜘蛛の子を散らすように、大高の下、黒末川口まで乗り入れたが、特に手柄もなく、乗りかえり、もどりざまに熱田の港へ船を寄席、遠浅のところから折りたて、町へ火をつけようとしたが、町人たちが遅いカッ狩、数十人討ち取られたので、何もせず河内へ引き返した。
 信長が馬先に今川義元の首を下げ急いでだので、日のあるうちに清洲につき、翌日首実検を行った。首数は三千余にのぼった。そうしていると、義元の鞭や湯掻けなどをもっていた同朋が下方九郎右衛門に捕らえられ、引き出されてきた。最近名誉をうけたもので、褒美や義元の機嫌もよく知っていた。同朋は義元をはじめ見知った首についてその姓名を書きつけてまわった。この同朋に熨斗つきの太刀、脇差をあたえ、その上十人の僧を用意して義元の首を同朋にそえ、駿河へ送りつかわわした。清洲より20町南、須賀口、熱田へ向かう街道に義元塚を築かせ、供養のために千部経が行われ大卒塔婆を立てさせた。この戦の手柄に、義元がさしていた秘蔵の左文字の刀をめしあげ、何度も斬っては、信長が普段さす刀となった。れ柄を申し上げるほどもない。
 さて、鳴海城には岡部五郎兵衛元信が篭っていた。降伏したので、一命をたすけた。大高城、沓懸城、池鯉鮒城、重原城も開城した。
天文二十一年=永禄三年の誤り
人間五十年〜滅せぬ者のあるべきか=幸若舞の敦盛の一部。
「人生は50年、下天世界から見れば夢や幻のようである。
一度この世に生まれてきて、死なないものがあるだろうか。
その短い人生を嘆き後世に安らぎを求めるよりも、短い間を一生懸命に生きぬくべきだ」
上知我麻祠=現名古屋市熱田区
朱武者=まだまだ力の弱いひよっこ武者の意味か?(笑)

長いですね〜ふう、ここまで打つので疲れました。
これ以上打つと私のポリシーである「スクロールバーを短くしない」に違反するので、今回は感想を。

信長=天才的なひらめきでどんな不利も勝利に変えるのイメージが強かったんですが(その象徴的なのが桶狭間だったのですが
決してそうではなさそうですね。
これは作戦でしょうかね。私だったら八つ当たり作戦と名前付けますが。
信長の大音声だって実は鷲津と丸根は本隊戦ってないので疲れてなんかいません。
これは織田方の記述である事も考え、義元が何度も謡を謡わせて油断しているように見えるのも、ちょっと事実とは違うでしょうね。〈仮にも東海一の弓取りだし
結果論勝ってるのですごい戦いですが、これ負けてたらホントばくちで大負けしているようなものです。
実は、この部分は年号を間違っていたり、けっこう信憑性として疑われる部分もあるのですが、読んでいてそんはないでしょう。

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