首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
火起請御取り候事

 一、尾張国海東郡大屋という里に、織田信房の家来である甚兵衛という庄屋がいた。隣の一色という村に左介という者がいた。両者は知り合いであった。あるとき、大屋の甚兵衛が十二月中旬、年貢の勘定に清洲へ出かけていた留守に、一色の左介が甚兵衛の宿へ夜討ちに入った。女房が居合わせてしまい、左介と取っ組み合いをし、刀の鞘を取り上げた。このことを清洲の斯波氏へ申し上げたため、双方ともお互いの主張を言い出した。一色村の左介は時の権力者信長の乳兄弟池田恒興の被官である。結局火起請をすることになり、三王社の前で、奉公衆など公の人間が双方から検使をだした。ここで恐ろしいことが起こったのである。というのも、左介は火起請を失敗したのだが池田恒興の衆は権威を募らせていたので、結果をないことにしようとし、成敗させなかったのだ。ちょうどそのとき、信長が鷹狩りの帰りに立ち寄り、その様子を見て「弓、槍、道具をもった人間が集まって何事だ」と聞いた。双方の主張を聞き早くもこの有様の一つ一つを理解すると顔色を変え、火起請の様子を聞いた。「どの位に鉄を熱してとらせたのだ。もとのように鉄を焼け。見せてやろう」といった。鉄をよく焼いて、「このようにしてとらせました」と申し上げた。すると信長が言うには「俺が火起請を取り済ませば、左介を成敗してやろう。そのこと、心得ておけ」といい、焼いた斧を手にとられ、三歩歩いて棚に置いた。「これをみたか!」といい左介を殺した。すさまじい有様であった。
三王社=現愛知県緑区のあたり。三王山。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)

さてさて、なかなか面白い記事が出てきました。
火起請とは、一種の神様に結果を託した裁判のこと。日本では盟神探湯(くがたち)などが有名。
盟神探湯は知ってる方も多いかも。学校で習いますしね。
熱湯に手を突っ込んでただれなければ無罪、という、なんともひどい裁判です(笑
でも結構古代のイメージがあると思います。ところがどっこい、この記事を見てるとフツーに行われていたことがわかります。
日本ではないですが、インドなどでもしばしば似たことが行われており、世界各地にこういった神様にゆだねる裁判の仕方はのこっています。

庄屋とは年貢を村落の人間に支払わせたり、法令や上意を知らせたりする、支配の一番末端に当たる部分の人間です。
しかし彼らは同時に村落のリーダー的役割も果たしたため、時には年貢を減らせ!と暴動を起こしてみたりもしました。
村落の人間と支配者の人間の中間に位置する人間です。

一方の左介はというと信長の乳兄弟池田恒興の被官ということで、こちらにも権力が絡んでいます。

実は、当時の裁判は公平に執り行われるというのが難しい場合がありました。
それが、権力の介入です。

たとえば場所は違いますが、近江枝村の商人と保内商人の間に紙座(紙商売)をめぐっての争論が起こりました。
事の発端は枝村商人の運搬していた紙を保内商人が奪取したことであり、どうみても枝村商人の言い分が正しく見えますが
そのときはうまい具合に支配者である六角氏(佐々木氏)や、その家臣を味方に付けた保内商人が勝っています。
対する枝村商人を保護していた京極氏は衰退し、変わりに浅井氏が勃興してきていた、という関係もあり、その場における権力とのつながりが希薄であったことが敗因です。
(枝村商人は京の宝慈院を本所、比叡山の援護を受けていましたから、まったく権力と離れていたわけではありません。
また美濃紙の専売特許を得ていました)

今回の火起請も権力の介入がかぎになってます。
池田氏による成敗を取り下げようとする動きも、権力が介入することによって裁判が二転三転しえたことを物語っていると思われます。
事は丸く収まってますが、信長が入ってきたというのも有る意味権力の介入といえるでしょう。有無を言わさなかったわけですから。

支配者はこういった争論が起こった場合の調停者の役割をも担っていたというのは、斯波氏に訴えているあたりから見えますが、
本当の権力者である信長の乳兄弟という池田氏が絡んでいるだけに、そう簡単に判決が出せなかったんでしょう。

しかしあれですね、「すさまじき様体」とありますが、熱いと思うんですよね、焼いた鉄は。
熱かったと思います。信長だって人間ですから。
だから本当は「熱っっ!ちょ、水、水っっ!」とか思ってても、言った手前上言えなくて、相当我慢して「これをみたか!」って叫んだんじゃないでしょうか。
その形相が「すさまじき様体」だとしたら、かわいくて仕方ありません。

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