首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
土岐頼藝公の事

 一、斉藤山城道三はもとは山城国西岡の松波庄五郎という者だ。一年間下国して、美濃国長井藤左衛門に仕え、扶持を貰い、与力もつけてもらった。ちょうどそのとき、無常にも主の首を斬り、長井新九郎を名乗った。一族同名となり野心をもち、争いをしているときに、大桑城にいた土岐頼芸を頼ったところ、別条なく加担してもらえた。その支援を貰って争いに勝利した。その後土岐殿の息子に次郎殿、八郎殿というご兄弟がいたが、かたじけなくも次郎殿を婿にとり、油断させて毒をもらせて殺し、その娘をまた側室にと無理に進上した。主は稲葉山にすえて、土岐次郎殿を山のふもとに置き、5日〜3日に一度ずつ行き、庭で面会した。鷹狩りを禁じ、遠駆けももったいないといい、籠に閉じ込めたようにしたため、雨の夜にまぎれて忍び出て馬に乗り尾張国へ逃亡を図ったので追いかけて切腹させた。父頼芸が大桑城にいたのを家老のものたちにたのみ追い出させた。そのため土岐頼芸は尾張国へ出て信長の父の織田弾正忠を頼った。誰の仕業だろうか、こんな落書があった。
 主をきり婿をころすは身のおはり むかしはおさだいまは山しろ
というものが七曲がり百曲がりに立ておかれた。恩をうけたのにそれを知らないのは、鳥が枝を枯らすのに似ている。山城道三は軽犯罪を犯したものたちを牛裂きにし、あるいは釜をすえてその女房や親兄弟に火を炊かせ人を煮殺し、大変激しい成敗をした。
土岐殿……頼芸の父。政房。

これは次の記事である道三の死に対する布石ですね。
道三ってどんな人物?という大まかなことです。

さて、少しでも道三に興味を持っている方は既にご存知だと思いますが道三は実は一人でのし上がったのではない、という話が出てきています。
しかしどこからどこまでが道三父の業績で、どこからどこまでが道三息子の業績か、ここではまったくわかりません。
他の史料をあさるしかないですね。
現在でもこれに対して決定的な史料が出ていません。あくまで可能性です。
道三自体、表には出てきにくい人物であるので史料自体はかなり限られています。
この「信長公記」でも記述が曖昧なところもあります。
道三については…私も調べましたが、通り一遍等なことしかまだ言えないので、保留しておきます。

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