首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
信長大良より御帰陣の事

義龍は合戦が終わり首実験を済ませると、信長の陣がある大良へ兵を送った。そして大良から3キロほどかけだし、河原のあたりまで出て足軽合戦になった。
山口取手介、土方喜三郎が討死。森可成は千石又一に出会い馬上で切りあい、脛の下を切られ退却した。
道三も合戦に負け、討死したというので、大良本陣まで信長の軍は引き下がった。ここは川が隔たっているので足軽の兵や牛馬をすべて退かせ、しんがりは信長自身が行うということになった。そのためすべての兵が信長が乗っている船一隻を残しそれぞれ川を渡っていると、義龍方の騎馬武者が数騎川のほとりまで駆け寄ってきた。すると信長は鉄砲を放ったのでこれより近くには寄ってはこなかった。そうしてしんがりをしたのちに船に乗って尾張のほうへと戻ってきた。ところが、尾張国のもう半分を治めている織田信安が美濃の義龍と申し合わせ敵に寝返り、信長の屋形である清州の近く、下の郷という村に放火したという知らせがあわただしく入った。苛立ちを覚え、巣部に岩倉へ手勢を率いて、岩倉近くの信安の知行地をやきはらい、その日のうちに兵を引いた。このような状態になってしまったので、下郡半国も大かた敵になってしまった。
一、清州から30町ほど隔てた、
下津郷に正眼寺という曹洞宗の寺があった。陣を張るには絶好の立地条件にある寺であった。上郡岩倉方が砦にするという噂がたった。そのため清州の人々を使って正眼寺の藪を切り払うための兵を出すことになった。清州の人々が返す返す言うには、騎馬兵83騎では心もとないという。敵はたん原野に3000もの兵を出した。信長は知恵を絞り、町人どもに竹やりを持たせ後ろに構えさせ、足軽たちに前に出てもらい小競り合いを行った。さて、互いに兵を引き、このようなやり取りがあったのだが…
下津郷……おそらく尾張下津城のあったあたりではないか?
かつて尾張国衙がおかれた場所でもある。

昔のお寺というのは囲いがあり、一種の要塞のような作りになっていたそうです。
30町と言えばそうそう遠い距離ではないので、信長側は必至で阻止したかったのでしょう。
足軽たちが戦い、町人たちは竹やりを持たせ後ろに回らせたというのは、おそらくは「もっと多くの兵を後ろに用意している」という
脅しだったのでしょう。
町人たちと足軽、区別されているところがまた面白いとは思うのですがすみません、なかなか時間が取れないので今回は考察は
省きます。


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