首巻 是は信長御入洛無き以前の双紙なり(これは信長公がご入洛なさる前の記録である)
   
山城道三討死の事

 道三の子供に、長男義龍、次男孫四郎、三男喜平次という三人兄弟がいた。父子四人とも稲葉山城を居城としていた。大体人の上にたつものは必ず心が緩くなり勝ちである。道三も知恵の鏡が曇り、義龍は愚か者だとばかり考え、弟二人が利口なものだと崇敬した。三男喜平次を一色右兵衛大輔にし、義龍が居るのに官位を進めた。そのように扱うので、弟たちも勝ちにのっておごり始め、兄を軽蔑するようになった。義龍は他から見てもわかるほどに無念に思い、十月十三日から病を偽りおくへ引きこもり、常に臥していた。
 十一月二十二日、道三は稲葉山ふもとの私宅へ下った。このとき伯父の長井道利を弟二人に使わした。その内容は「既に重病である。時が来るのを待つばかりである。会って一言申し上げたいので、来てくれませんか」というものであった。道利はうまく立ち回り、申し伝える内容に異見をするので、二人の弟は納得し義龍のところへ行った。道利は
次の間に刀を置いた。これを見て弟たちも同じように次の間に刀を置いた。そして奥の間に入った。わざと杯をといい、弟たちに振舞ったところに日根野弘就が名誉の物切の太刀、手棒兼常作の名刀を抜きもち、上座に座る孫四郎を切り伏せ、また右兵衛大輔を切り殺した。こうして無念を払い、すぐに稲葉山のふもとに居る道三へこのことを知らせた。道三は仰天しひどく驚いた。このためほら貝を吹かせ兵を集め、町の端四方から火を放ちことごとく放火して稲葉山城を裸城にし、長良川をこえて山県というところに引いた。
 翌年四月十八日、鶴山へ登り国中を見下ろす形で陣を張った。信長も道三の婿であるので戦のため木曾川、飛騨川を船で渡り、これらの川を越え大良の戸島東蔵坊の構えに至りそこに陣を張った。銭亀があちこちに銭をしいたような有様であった。
 四月二十日午前八時ごろ、北西へ向かって義龍は兵を出した。道三も鶴山を降りて長良川の川辺まで兵を出した。一番合戦にでたのは竹腰道塵隊であった。600ばかりの手勢が一丸となって中の渡を突破し、道三の旗本へ切りかかった。散々に入り乱れて戦った。しかし最後には竹腰道塵が合戦に負け、道三が竹腰を討ち取った。床木に腰をかけほろをゆすり満足して居るのを見た義龍は二番槍に大人数でどっと川を越したので、お互いに隊を整えた。義龍の構えの中から一騎、長屋甚右衛門というものが進み出た。また道三の陣からは柴田角内というものがただ一騎のみでてきて長屋の挑戦に受けてたった。両軍の真ん中で戦い勝負を決した。柴田角内は晴れがましい高名を立てた。そして双方とも同時にかかりあい、入り乱れ、激しい戦になった。おのおのが必死に戦い、あちらこちらで思い思いに働いた。長井道勝は道三と渡り合い、打太刀を押し上げ、むずを懐をつかみ道三を生け捕りにしようとしたが荒武者の小牧源太がはしってきて、道三のすねを薙ぎ伏せ、首を取ってしまった。道勝は後の証拠のためにと道三の鼻をそいで退却した。合戦に打ち勝って首実検しているところに、道三の首は出された。このとき自分は親を殺した罪があるといい義龍は出家をした。これより後、新九郎飯賀と名乗った。これには故事がある。昔唐にいた飯賀というものは親の首を斬った。その飯賀は父の首を切って孝行したのだ。今の義龍は親不孝であり、重罪である。
稲葉山城……岐阜城のこと。金華山城、美濃井ノ口城とも
次の間……主君に仕えるものが控えるところ。

牛一の言う飯賀の故事が孝行で、義龍が親不孝な理由がさっぱりわかりません。
故事があったらしいのですが、まったく史料が出てきません。なので実際の故事はわからずじまいです。
「飯賀」のほかに「范可」の当て字もあったのですがうつのめんどくさいので「飯賀」にしました。

義龍が実は道三の前の美濃の支配者土岐頼芸の子……なのかどうかはわかりませんが、これを大義名分に使ったことは確かなようです。
実の父を殺すという大罪にはならないわけですからね。こうして兵力を集めたといわれています。
ただし、こんなことだけで道三が不利になるでしょうか。(こんなことといったら変か。
だって美濃の豪族たちにしてみりゃ、正直義龍の父が誰であったって関係ないんです。

つまりは道三がしてきたことに原因があるのです。
土岐家は古くから美濃に居た権力者でもあったため、土岐家を慕う勢力はここかしこに居ました。
道三は彼らを抱え込む、あるいは統制するのに苦慮しています。
その内容が前の記事である土岐頼藝公の事にあたるわけです。
かなりの強権政治。これらが原因で道三に支持が集まらなかったといわれています。

また「父親殺し」、しかも早くになくなってしまうためどうしても非道な面(無能な面?)ばかりが誇張されがちな義龍ですが、そうでもなさそうです。
道三のことを「知恵の鏡も曇った」などと牛一がいってますが、そこからしても、また故事を引用するあたりからも実は切れ者であったことが伺えます。
この記事を見ると、どうも当初から父を殺すつもりで合戦をしていたわけではなさそうです。
まず長井道勝が「生け捕り」にすることを試みてますし(乱闘でそうは行かなくなってしまいました。
義龍自身、自分を親殺しの故事に結び付け出家しています。
義龍がもし親を殺して孝行したというのであれば、親孝行ではなく美濃の人々に対しての孝行だったのではないでしょうか。

つまり大衆を味方につけた義龍の完全勝利だったのでしょう。
ただし想像するには義龍の望んだ勝利の形ではなかったと思われます。
父親の政治にクーデターを起こした大名は他にもいます。
近江の浅井長政がそうです。
彼は父を竹生島(琵琶湖に浮かぶ島)に幽閉し隠居させ、後に長政を支える形で幽閉をとかれています。
時期は浅井のほうが2年ほど遅れていますが、こういった事例があるということは、クーデター=相手を殺すことではなかったはずです。
きっとおそらくは弟たちを殺すだけにとどめるつもりだったのではないでしょうか。


退却